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かみさまのこども

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ぺたり、とまた岩に、……恐らく彼自身が作ったであろう墓標にへばりついて、彼はまたぽたりと涙を落とした。
「ここなら一人じゃない。だから…忘れない…いっぱい。教えてくれた事……一緒に見た事、話した事、俺はまだ全部覚えてる」
「一人じゃない、から……?」
「ここならトロイとずっと一緒だ」
歪だ、と思ったが、そもそも彼はあらゆる面が歪になってしまった存在なのだった。そしてそれは、実のところ……自分自身にも当てはまるな、と彼は内心苦笑した。
岩にすがりついて泣き続ける少年の頭を軽く撫でると、彼はまたびくりと肩を振るわせた。こうして柔らかく触れられる事もあまりなかったのだろう、恐らく彼にそれを施せたのはもはや苔むした岩の下で永遠の眠りについているであろう男だけだったのだ。
「なら、少しだけ持って行こうか」
「持って行く?」
「掘り返すのが嫌なら、この岩でもいいよ。一欠片だけ。袋を作って、首から提げておけばなくす事もないだろう、そうすれば世界のどこに行っても彼と一緒だ」
「……ずっと一緒?」
「うん。でも、一人では心配だろうから、僕が一緒についていってもいいだろうか?……いつか君を見かけたら、元気でいるか様子を見て欲しいと……君がもう忘れてしまった、でも君の事を最後まで忘れなかった人達にね。頼まれたんだ……もう、100年以上昔に」
「聞くのを忘れてた」
「何を?」
「名前を。あんたの名前」
「ああ。キリルだよ」
「……100年生きてるのか」
「君と一緒でどうにも年を取らない。原因は違うけどね」
「そう」
こくりと頷くと、しかしオーリは酷く迷ったように視線を彷徨わせ、再び墓標にすがりついた。彼はずっとこうしてきたのだろう。辛い時や、迷った時、悲しい時に。一人ではないとは言うけれど、そこにあるのはきっと優しい思い出、ただそれだけなのだった。
キリルは心の中で、もういない男に敬意と感謝を表す。目の前の少年が完全に壊れてしまわなかったのは、恐らく彼と過ごした日々の幸福な記憶、まさにそれだけが理由であったろうからだ。それを人生全てを使って彼に与えてやった人に感謝すべきだろう。
……そして自分は何をしようとしているのだろう、とも、思う。ある意味これも感傷なのだろう。遠い日々にすれ違い重ならなかった運命がやや残酷な形で目の前に座り込んでいる、彼を少しだけ助けてやろうという気分になっていた。長すぎる人生だから、そういったこともありだろうし、多少時間を割いても問題はなかろう。せめて目の前の壊れた少年が安息の地を見つけるまではつきあってやってもいい気がした。

想像していたよりも柔らかな材質の岩だった。軽く欠いて、沢の水で洗い磨けば黒く光る少し変わった色合いの岩だった。オーリに尋ねると、近くから探してきた、と呟いていた。その岩の色が今はその下で眠っている男の瞳の色に似ているという事までは、さすがのキリルも思い至らなかった。
小さな布でとりあえずそれを包む。巾着袋を用意した方が良いだろうが、さすがにここでは無理だ。とりあえずは、彼の胸元にそれをねじ込んだ。途端に衣服の上からぎゅうとそれを握りしめて、オーリはどこか夢見心地の表情を浮かべた。
彼の格好は、村人が言っていた通り時折手入れされているらしく、薄汚れてはいたがぼろぼろに朽ちているというほどでもなかった。とはいえ大きな街に出たらすぐに買い換えてやるべきだろう。髪はひとくくりにまとめて、前髪だけは邪魔気だったので手持ちのナイフで軽く切りそろえてやった。その間彼はおとなしく、…というよりもずっと胸元の布包みを抱きしめていたのだ。
一通り準備が終わると、オーリはふらふらと立ち上がり……足下はおぼつかなかった。せいぜいこの周囲を徘徊する程度、ずっと座っている事が多かったからだろう……最後にあのささやかな墓標にまたぺたりとくっつき、欠いた部分にそっと唇を寄せた。酷く愛おしげに、薄く伏せた瞳の端から再び涙がぽたりとこぼれ落ちた。

強烈に頭に焼き付いている光景がある。立つ事ができなくなった彼が、もうお前の名前を呼んでやる事ができない、これが最後だ、そう言ったのがこの場所だった。すまない、これでまたお前は自分の名を忘れてしまうかもしれないな、と。そして彼は自分の息が絶えるまで、ずっと手を握って泣き続けている少年の名を呼び続けてくれたのだ。
忘れない、決して、彼の声も、名前も、瞳の色も、一緒に眺めた幾多の景色、ああ、あのあまりにも長く続いた胸が張り裂けんばかりの辛い日々も、それでも彼と自分の名前をはっきりと覚えていると気づいた時の喜びも。
あれだけ涙を流したというのに今もまだ涙が零れるというのなら、一生分の涙とはどれほどの量なのだろうか。

さよなら、でもそれはこの場所だけで、ずっと一緒だから。ずっと忘れないから。



足下のおぼつかない少年を連れて、ゆっくりと裏街道まで山を下りてきた。彼は左手で胸元の布包みを衣服の上からずっと握りしめていて、右手でキリルの上着の端を軽く掴みとぼとぼと足下を見つめながら歩いている。確かにその歩き方でなければ転んでしまいそうだったし、実際何度か転んだ。だが彼は自分の身よりも胸元の石の方を必死で確認していて、……しかしこれは呆れるというよりも感心すべき部分なのだろう。
何だか無理矢理誘拐した気分だ、そう思いながら敢えて明るい声で語りかけた。
「さて、オーリ。……どこに行きたい?」
「……分からない」
「そうか、覚えてないか。ごめんね。……じゃあ、まずはあそこに行くか。トロイさんの、生まれた街」
「!」
顔を跳ね上げて目を丸くした少年…いや本当は自分たちは同い年に近いはずだ…彼の素直さに少し笑って、軽く頭を撫でる。肩の力がすとんと抜ける様子に、ああ、彼は今の今までずっと緊張し続けてきたのだ、と気がついた。
「少し遠いから、長旅になる。その間、いろんな場所を見る事ができると思うよ」
もう彼は覚えていないだろうけれど。
オーリは首を傾げて、そしてぽつりと呟いた。
「世界の果てまで行けるだろうか」
「……君がそれを願うなら、行けるだろうね、いつの日か」
「トロイと一緒に?」
「………。そうだね」
そう、オーリが彼を忘れさえしなければ。そしてそれは絶対にあり得ない事だろう、とキリルは確信めいたものを抱いていた。もしも彼がトロイの存在を忘れる日が来るとしたら、それは彼の心自体が死んでしまった時に違いない。
彼はさらに強く衣服の胸元を掴み、派手に皺が寄った。それを見て、早く巾着袋を調達しなければと考えながら、キリルは……左手を差し出した。
オーリが左手で胸元を掴んでいたからだ。それを見て、オーリは数回瞬きし、おずおずと右手を差し出した。痩せた手を軽く握ると、彼は小さく肩を振るわせて、……ようやくかすかに笑った。
「キリル」
「何?」
反射的に答えてから、彼が自分の名を呼んだのは初めてではないかと気づき、思わず顔を見返す。オーリは相変わらずうっすらと微笑んだまま、繋がった右手に僅かに力を込めた。
「『俺達』を、連れて行って。トロイの故郷や、……どこか。俺が行きたい場所、俺が知らない場所、海の果て、陸の果て、世界の果てに」
「それが君の願いかい?」
作品名:かみさまのこども 作家名:滝井ルト