ありえねぇ 6話目 前編
その間、物件をいくつも提示してきたが、いつも対応は無感動無表情冷静を貫いてきた彼が、いきなりの怒り爆発である。
度肝を抜かれ、再び勢い良く土下座する営業担当者を、もう幽は相手にしなかった。
血相変え、車の鍵と免許証の入った財布、そして携帯だけを引っ掴み飛び出していく。
それから5分と経たない内に、彼はポルシェのエンジン音を、盛大に唸らせながら池袋の街に消えた。
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一人ハンドルを握り、ミカドを失うかもしれないという焦りが、幽の心を苦い気持ちにさせ、今まで思い出しもしなかった、醜い記憶が脳裏を横切る。
昔、まだ自分が小学生だった頃、家と学校の丁度中間地点にあった花屋に、とてもお人よしなお姉さんがいた。
兄は怪力に目覚めたばかりで。
怪我や骨折ばかりしていた静雄をとても心配してくれて、学校から二人で帰る度、通りがかると必ず呼び止めてくれ、牛乳や菓子をくれ、頭も撫でてくれた。
自分も兄も無口だったから、時間にすれば五分も無いぐらい僅かな邂逅。
でも、皆に避けられている毎日だったからこそ、気まぐれに差し伸べてくれた手が嬉しくて。
兄の初恋は自分も同じだった。
所がある日、その店がヤクザに地上げの標的にされてしまった。
お店が怪しい男達に襲われている時、たまたま静雄が通りかかったのが運の尽き。
その優しいお姉さんは、ヤクザを吹っ飛ばすついでに破壊され、店舗の落ちてきた天井部分の瓦礫の下敷きとなって重症を負い、それから二度と二人に話しかけてくれる事はなかった。
ねぇ、一体何が悪かったの?
大好きな兄が、大好きなお姉さんを傷つけた。
兄はただ、ヤクザからお姉さんを助けたかっただけなのに。
どうにもならないデススパイラルに、どうして俺の家族は叩き落ちねばならなかったの?
初恋が破れてから、兄はますます力を暴走させた。
標識1本10万円。自販機一台50万以上。信号機一本200~600万。車は100万~、建物は1000万~、ビルや公共施設なんて想像もつかない。
兄が街を破壊する度、父母の借金はみるみる膨らんでいった。
正直、直ぐに生涯かかったって返せない金額に到達した。
両親は仕事だバイトだと昼夜構わず働きづめで家を空けっ放しとなり、父母の友人はおろか、親類縁者まで全ての人々が平和島家と縁を切った。
子供であった幽も、知恵を絞るしかなかった。
例えば静雄に殴られた奴が復讐に来ても、上手くかわすか二度と手出しできぬよう、徹底的にぶちのめしてしまわないとならなかった。なんせ兄にバレたら最後、キレて怒り狂った彼が仕返しに行ってしまうのが判っていたから。
兄が暴れれば暴れる程、それだけ父母の借金が増える。
かと言って、両親も幽も、一切静雄を責める事はなかった。
静雄に我慢を強いれば、ぶち切れた時被害が倍増する。それにもし彼に手を上げれば、我慢が利かずに反撃する恐れがある。しかも、下手したら素手で殺される。
そんな未来予想図が脳裏に過ぎっておきながら、一体誰が静雄を殴れるという?
誰だって、自分の命は惜しいし、静雄を親殺しや弟殺しの殺人者にしたくない。
それに、自分の思うとおりに力を制御できず、物も人も壊してしまう事を一番嘆いているのは心優しい兄なのに、彼にとってどうにもならない事を責めるのは、酷だ。
静雄を必要以上に悲しませたくなかった。
大好きな自慢の兄は、もう十分傷ついているのだから。
それに自分までキレたら、もう生活苦で一杯一杯な両親も、更に追い詰められて気が狂ってしまうと思ったから。
だから自分にできる事を頑張ろうと決意した。
いつも親の顔色を伺い、兄の感情の起伏を予測し、先の先を読み、破壊被害をなるべく最小限にとどめようと努力した。
それは、行き着く所まで行ってしまえば、己の我侭を全部殺すこととなり、気がついたら喜怒哀楽の全ての感情が無くなっていた。
そりゃそうだろう。
希望も期待もしなければ、失望する事も、嘆く事も、泣く事も、怒る事喜ぶ事楽しむ事も何も無い。
両親は金を稼ぐ事に、静雄は自分の事だけで一杯一杯。
誰も彼も余裕が無く、無表情になった幽をどうする事もできなかった。
自分だって、皆を悲しませていると気がついていたから、自分なりに一生懸命考えた。
どうすれば、家の家族は昔のように幸せになれるのか?
どうすれば、自分はまた感情を取り戻せるのか?
兄の益々酷くなっていく爆発を出来る限り食い止めながら、幼いながら必死で考えて、導き出した答えは【金】。
だって借金さえなくなれば、両親だって死に物狂いで働かなくて済む。
そしたら母は家に居てくれるし、兄だって、己を曝け出して甘えられる大人が側に居れば、きっと無闇やたらと暴れたりせず落ち着く筈。
生活が立ち直れば、自分も失った感情を取り戻せるかもしれない。
【軍資金100万を、1ヶ月でどれだけ増やせるか?】というTV番組の企画に応募し、実際かなり無茶して11億も稼いだ。
なのに、兄の積み重ねた借金はハンパなく、こんな大金でも焼け石に水状態で。
家族会議の結果、幽の財産は温存し、父母は破産する事になった。
だって、桁違いの怪力がある限り、今後も静雄の借金は雪だるま式に増えていくのだから。
兄の生きる糧を提供できる、最後の命綱になれるよう、絶対に幽のお金に手をつける訳にはいかなかったのだ。
無表情無感動な異色の俳優として芸能界にデビューすると、短期間で莫大な資産を築いた密着記録番組のオンエアと、当時大したニュースが無かった幸運が重なり、話題を浚ってあっという間にスター街道を駆け上った。
この不景気な時代なのに、次から次へと映画やTVドラマの主役が舞い込み、今では【羽島幽平】の名を知らない者は、全国でも殆ど居ない。
人気が出ればギャラは跳ね上がる。
両親にはもう、お金に不自由させる事は無くなったが、今までの生活苦に心身を痛めつけすぎたようで、贅沢は敵で服は着たきり雀、野菜は家庭菜園でできるだけ自給自足、ガスもなるべく使わず七輪、しかも炭は濡らした新聞紙を丸めて日に干し、お手製の薪にするという徹底振り。
超倹約家と言えば聞こえはいいけれど、明らかに二人とも精神が病んでいた。
其処に幽のファンやマスコミが自宅周辺を24時間張り込み、プライベートが根こそぎ観察され、また自分達を見捨てた親戚達や友人達が、手の平返したように馴れ馴れしくすり寄ってきた。
こいつらは最低最凶のタッグとなった。
なんせ、今をときめく平和島幽の過去話を、取材陣に話せば話す程謝礼金の額は跳ね上がる。
それこそ幼年期から現在まで、同じ時を過ごしてきたのだからネタに事欠かなかっただろう。
父母にとって赤貧な恥の多い時代を、僅かな金銭と引き換えに、親戚面親友面して好き勝手に暴露しまくるのだ。
父母が共に、重度の人間不信になったのは当然だった。
家のTVを壊し、カーテンを閉め切った部屋で引き篭もるようになった親を、静雄に抱えて貰って医師の所へと連れて行った。
作品名:ありえねぇ 6話目 前編 作家名:みかる