紅月の涙
コ ロ シ テ ヤ ル ! !
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ファズをシャディのところへ、アッシュをリィエルとギルディのところへ向かわせた。
あとは自分が彼を止めるだけ―――なのだけれど。
何時の間に彼は、こんなにもの武器を手にしていたのだろう?
「ユーリ、」
彼の瞳には殺意しか宿っていない。
まさかこんな事になるとは考えてもみなかった。
僕らは油断しすぎていて、気にも留めていなかった。気にしていなかった訳ではないけれど、また暫くすればいつものユーリに戻るだろうと思っていた。
そう、今日もいつもと同じ朝が訪れる筈だった。
なのに、アッシュが朝食に呼びに行った時、彼は…
部屋の家具という家具を叩き潰し、とにかく在るものを壁に投げ付けては壊し、正気の沙汰ではなかったらしい。
物音に僕が駆け付けた時には、アッシュがユーリを取り押さえているところだった。
何故突然彼が豹変したのかは分からない。
必死で押さえ付けていたアッシュに、憎悪を孕んだ表情で彼が向けて発した言葉だけが唯一の手掛かりだった。
「シャディィィィィ…!!!!!!!貴様が父様を…!!母様を殺したのかァァァァァァァッ!!!!!!!!」
僕等は絶句した。
シャディたち…ユーリの兄たちの事は僕等も少しだけれど知っていた。
ユーリの兄は、特にシャディは、ユーリの事を酷く溺愛していた。第三者の僕等から見ても一目瞭然だった。
月に一回は蝙蝠を寄越してユーリに手紙を送ってくる。一年に一回は様子を見に来ると銘打ってユーリにベタベタひっつく。
その場にアッシュの弟のファズが居ると殴り合い蹴り合いの喧嘩をして、毒を吐いたかと思えばユーリから癒しを貰って帰る。そんな感じのヤツだった。
正直不愉快なくらいの溺愛っぷりだった。手紙には元気にしているかとか、変な男に付き纏われてないかとか、いつも同じ内容が書いてあった。
僕から見てもユーリは可愛いし恋愛対象にしたいし心配なのは分かるけど一応男だよ!寧ろお前が変な男だよ!と突っ込むのにも疲れた。
でも決して嫌いではなかった。
鬱陶しいけど悪いヤツには見えなかったし、僕もアッシュも門前払いをする事はなかった。
それに、彼がユーリを愛しているのは他でもない事実だし、何よりユーリも呆れながらも(長男なのに彼だけは呼び捨てという扱いだった)彼を愛しているのが見て取れたから。
僕にも兄弟はいるけれど、そこまで親しい訳ではない。寧ろ羨ましいくらいだった。
だからこそ、ユーリの発言が信じられなかった。
ただ、夢を見ただけにしてはあまりに取り乱しすぎている。それに、彼の昔の記憶は欠落していると聞いていたから、その部分が蘇ったのかもしれない。
「殺す…」
けれど、驚く暇も、考える暇もなかった。
小さく憎悪の言葉を呟いたかと思うと、一瞬でユーリは力を発してアッシュの戒めを解いた。
「殺す!!!!」
「ぐあ、っ…!」
「アッシュ!」
そこまでの行動を取る事はないだろうと油断していたらしく、大柄なアッシュの身体が簡単に吹き飛んで壁に叩き付けられる。
慌てて確認してみたけれど、幸いにも軽い打ち身で済んだ様で、意識もはっきりしている様だ。流石は体力バカ。
―――ならば、問題はユーリ。
尋常ではない様子からして彼は完全に正気を失い、その華奢な身体が恐ろしく大きく見える程に禍々しい気を発している。
―――其処に在るのは、純粋なる殺意。
彼はシャディが両親を殺した、と言った。
それが彼の失っていた記憶に在った出来事なのか、それ以前に本当に真実なのか否かは分からない。だが、彼はそれに関わらずシャディを殺す気つもりでいる。
吸血鬼の機動力は恐ろしく高い。このままうかうかしていたらすぐにでもユーリはシャディの元へ辿り着いてしまうだろう。
考えている暇はない。でも無計画で我武者羅に行動する訳にもいかない。
このまま二人がかりで押さえ付けても、吸血鬼の強大なユーリの力となると突破されてしまうのは時間の問題だ。
「―――っ!」
僕が計画を練っている一瞬の隙を突いて、ユーリは信じられない勢いで部屋を飛び出した。
「ユーリ…!」
「待って、アッシュ!」
ユーリを追おうとしたアッシュに続いて僕も走ろうとしたけれど、瞬時に冷静になって足を止め同時に彼を呼び止める。
方向からして、彼が向かった先は―――
「地下室だ。何をするつもりかは分からないけど、あそこから地上に出る事は出来ない…出口に先回りしよう。その間に考えたい事と、話したい事がある」
ユーリを追って廊下を走りながら地下室からの出口へと先回りする間に、少ない時間を使って編み出した計画をアッシュへと告げる。
計画を完全に実行するには三手に分かれる必要がある。アッシュと、僕と、あと一人。
シャディの身に危険が及ぶのはまず間違いないから、まず彼への伝達に一人。
続いて、事の真実を早急に見極めなければならない。それを知っているのは、ユーリとシャディの兄弟であるリィエルとギルディしかいない。
幸いにも彼らは同居している様だから、情報収集へ向かわせるにも一人で大丈夫そうだった。
そして最後に一番難関とも言える、ユーリを止める一人。この三手だ。
まず、ユーリを止める担い手から考えた。
最初は体力もあるし頑丈なアッシュが一番適任だと思った。
でも、僕には機動力がない。
伝達と情報収集は一刻を争うものだ。それならばアッシュともう一人はファズの手を借りて其方に向かわせた方が適任だと考え直して、僕が此処に残る事に決めた。
アッシュとファズは人狼だ。当然素早さも飛び抜けている。その機動力は吸血鬼をも凌駕する程だ。
それに、ファズならシャディを上手く逃がしてくれそうな気がした。
いつも喧嘩してばかりで本人たちは気付いてないだろうけど、あの二人は絶対両思いだから。何だかんだ言いながらも彼なら何とかしてくれるだろうと判断しての事だ。
「凄ぇっスね。こんな短時間でそこまで考えるなんて…」
「バカ犬、僕の頭脳を舐めてんの?それにこんな非常事態なんだから無理にでも捻り出すって」
丁度計画を話し終え、感心するアッシュを軽く窘めたところで地下室へ続く重い扉の前に着いた。奥にユーリの気配を感じるから、まだ彼は出て来てはいないだろう。
一先ず間に合った事に安堵しながらも、このまま時間を無駄にする訳にはいかないとすぐに気を引き締めて頭を巡らす。
ユーリはなかなか戻って来ないようだ。ならばその内に行動に移しておいた方が良さそうだった。
すぐにアッシュに連絡させて、ファズをシャディのところに向かわせた。
あとはアッシュをリィエルたちのところに向かわせて見送るだけ。
少しとはいえリィエルたちとも面識はあるしお互い敵意はないから、聞き出すのに苦労はしない筈だ。
此処までは順調。そう、此処までは…この計画に穴はなかった。
そう―――問題は最期の砦である僕。
死んだって構わない知らないヤツなら容赦なく叩き潰せるけど、何たって相手はユーリ。
―――決して弱くはないつもりだけど、そのユーリを相手に傷付ける事なく、そして傷付く事なく何処まで立ち回れるか…