紅月の涙
「ユ…、」
瞬きをする間もなかった。
刹那風を切り大きく羽ばたく音が聞こえたかと思うと、彼の姿は既に闇へと掻き消えた後で――――
「ユーリィィィィィィィ………!!!!!!!!」
僕の叫び声は誰にも届く事なく、ただ虚しく屋敷内に反響して消えるばかりだった。
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屋敷に突入してからどれだけこうしているだろう。
窓代わりに繰り抜かれた石畳の壁から覗く月明かりだけが照らす、古びた広い廊下をただひたすらに駆けた。
「何処だ、シャディ…!」
襲い来る蝙蝠に短剣を放って撃墜しながら彼は走る。
目眩ましや時間稼ぎ程度にしかならないとはいえこうして刺客を寄越して来るのだから、屋敷に訪れている異変には既に気付いているだろう。
既にアッシュが逃がした後で時間稼ぎをしているという可能性も考えたが、シャディの気配は間違いなくこの屋敷の中にある。
この場所に留まっている理由は分からないが追う手間が省けるというもの、見つけ出して息の根を止めるだけだ。
ただ、だだっ広い上複雑な構造をしている、屋敷よりも城と称した方が適切なこの建造物を闇雲に探していては夜が明けてしまう。
此処まで感情のままにひたすら駆けてきたユーリはそう冷静になって立ち止まる。
激情に狂い我を失った事で折角の機会を無為にし、取り逃がしてしまったのでは本末転倒だ。
彼は一度深呼吸をした後腸が煮え繰り返るまでの感情を一時的に落ち着かせ、神経を研ぎ澄ませて兄の気配を手繰り寄せる。
相手は己より力を持つ兄だ、一筋縄ではいかないだろう。
ただ、力を持つ者程その全てを悟られぬ様に遮断するのは難しい。その僅かな力の気配を辿るのもまた容易な事ではないのだが―――…
予想とは異なりシャディの力の気配は全くと言って良い程断たれておらず、瞬時に居場所を特定する事が出来た。
屋敷の最上階にある、礼拝堂を模した部屋。
懺悔の間と称されている其処は、正しく最期の決戦に相応しい場所だ。
―――逃げも隠れもしないという事か。
この場に留まった理由。そして隠そうともしない気配。
行動から読み取れる絶対的な兄の自信に、一時的に押さえていたユーリの彼への殺意は今までより更に増して沸き上がる。
屋敷の深部へと近付くに連れ増していく蝙蝠を鮮やかな動作で次々と撃墜しながら、ユーリは屋上へと続く螺旋階段を駆け続けた。
礼拝堂へと続く屋敷で最も大きな扉の前に辿り着いた頃には、ユーリの手持ちの短剣は蝙蝠の刺客との戦闘で既に10本を切っていた。
確実に息の根を止める最期の手段としての銃は、コートの中の、更にワンピースの懐へと忍ばせている。不意を突きこの銀の銃弾で確実に心の臓を貫くには、所持しているという存在自体を決して気取られてはならない。
即ちそれまではこの数少ない短剣で応戦する必要があるという事だ。
だが、屋敷を出る前スマイルに告げた通り、この短剣は銀で出来ている。傷を負わせる事さえ出来ればそれなりの痛手にはなる筈だ。
死ぬ程憎んだ両親の仇である兄の気配は扉の向こう、すぐ目の前にある。
「シャディィィィ…!」
その事実に最早冷静になる事も、考える為に殺意を抑える事も儘ならなくなった。戦術も御座なりに重々しくも厳かな造りの扉を開け放つ。
斯くしてユーリの最も愛し最も憎んだその人の姿は、礼拝堂の最深部である祭壇の前にあった。
取り乱すでもなく、牽制するでもなく、ユーリが此処に来るのを初めから知っていて待ち侘びていたかの様に、その場に静かに佇んでいた。
此処に来ていると思っていたアッシュの姿はない。追い返したのか、そもそも初めから来ていなかったのか、或いは両親の様に彼が――――
最悪の予想に辿り着いたそこでふつりとユーリの思考は途切れる。
考えるよりも先に身体が反応していた。
「シャディ!!アッシュを何処へやったァァァァァ!!」
その眼前に向けて短剣を放ちながら間合いを一気に詰める。
シャディは考える様にして一瞬首を傾げた後、一切無駄のない動きで短剣を払い落としながら静かに答えを零した。
「…アッシュ?ああ、あの犬か。あれは此処へは来ていない」
殺意を剥き出しに迫るユーリに対し、彼は恐ろしい程に落ち着き払っている。
ゆっくりと手を伸ばしたかと思うと、ユーリが間合いを詰める直前にその顔面を鷲掴みにした。
「がっ…!」
「嘘ではない。そう喚くな」
頭蓋骨が軋みそうなまでに強く圧力をかけられながら、ユーリの身体がゆっくりと持ち上げられていく。
相当の力を要するに違いないが、シャディの表情は一つも乱れていない。
指と指の隙間から見えるその様に、更にユーリの頭に血が上る。
アッシュの事は真相が掴めないままだが、屋敷に踏み入った時から気配を一切感じなかった事から恐らく嘘ではないだろう。
だが問題は其処ではないのだ。
ユーリは頭蓋に反響する痛みに歯を食い縛りながらも涼しい表情の相手を射殺さんばかりに睨み付け、呪詛にも近い言葉を吐き出す。
「貴様が…、」
「貴様が父様と母様を殺したんだろう…ッ!!」
シャディからの答えはない。
否定も肯定もしない兄の態度に煽られ、ユーリは痛みも忘れて新たな短剣を震える手で取り出し己を戒める腕を裂く。
その行動を瞬時に察知したのかシャディは手を離してユーリを解放し、素早く腕を引いた。
受け身を取れずに床に倒れ込んだユーリは、視界の隅に鮮血を捉える。どうやら彼の一手はぎりぎりのところで兄の腕を裂いたらしい。
銀の影響は大きく、腕に異変を覚えたらしいシャディの今まで微動だにしなかった表情に変化が訪れる。
「銀か…」
掠り傷とは言え止まる事のない出血に端正な顔立ちが忌々しげに歪められている。
このまま反撃の余地を与えてはならないとすぐさま床から跳ね起き、先程打ち落とされた分も拾い上げ二本の短剣で追撃を狙う。
そのまま素早い身のこなしで立て続けに斬撃を繰り出すものの、それを上回った手負いとは思えぬ動きでシャディは一撃一撃を躱していく。
普段通り冷静に対処していればまだ突破口は開けただろうが、憤りに我を失い闇雲に剣を振るうユーリに勝機はない。
結果的に彼の体力だけが消耗されていき、終いには素手で短剣の両方を受け止められてしまった。
押すか引くかして次の一手に繋げようとするも、恐ろしい程にびくとも動かない。
しかしシャディはその隙を突いて反撃するでもなく、まるでユーリを弄ぶかの様にすぐに両手を離してあっさりと解放してしまう。
その意図の読めない動きに警戒し、ユーリは再び距離を取った。
「悲しいな、ユーリ…そんなものでこの兄を斬るとは」
目を伏せたシャディが物憂げな表情で言葉を紡いだ瞬間、彼の纏う気配が一変する。
今正に彼自身によって解放された力は室内中の空気を震わせ、ユーリもその大きさを全身を以て思い知る。
「まさか本当にこんな日が来てしまうとは…」
悲しげに綴られた言葉もまるでこうなる事が予知されていたかの様で、何処までが彼の本心か分からない。
また、力を解放する事は即ち今まで静観していた彼が攻撃に転じる体勢になった事を意味する。