紅月の涙
後に残るのは兄の骸と、まやかしで成り立った空っぽの自分だけ。
固唾を呑んでユーリが見守る中、暫くの間を置いて静寂は破られた。
「そうだ」
棘を含んだ、躊躇いのない言葉。
冷徹な表情は微塵たりと変わらない。
寧ろその顔に凶悪な笑みを浮かべながら、シャディは微塵の希望も残さぬかの様に、ユーリが望まぬ事まで口にする。
「全てはお前を手懐ける為の俺の謀。お前への愛情など欠片も無いわ。全てを思い出してしまった以上、此処で殺してしまっても良いが…お前にはまだ利用価値がありそうだ」
信じられなかった。信じたくなかった。
ユーリの視界が涙に霞み、やがて憎しみと殺意に真っ赤に染まっていく。
そんな彼に止めを刺す様に、シャディは今までにない下衆な笑みを浮かべながら最後の鉄槌を下した。
「選ばせてやろう。殺されて両親の元へ送られるか。それとも再び記憶を消されて再び俺の弟として利用されるか―――」
最早聞き取れたのはそこまでだった。
完全に殺意に飲み込まれたユーリに躊躇いなど無く、一瞬の所作で懐から銃を取り出し憎き相手の心臓へと狙いを確実に定める。
「シャディィィィィィ………!!」
憎悪と悲愴に満ちた叫びが木霊し、その引き金が引かれる正にその瞬間。
閉じられていた重々しい扉が乱暴に開け放たれる音が礼拝堂内に響き渡った。
**********
「スマッ!?」
「あ、…しゅ…」
アッシュが城に戻った時にはスマイルは既に虫の息だった。
血の海になっている部屋に顔を真っ青にしながらアッシュがスマイルを解放してやると、立つ事すら儘ならぬのかそのまま倒れ込んで来る。
後悔に苛まれながらもしっかりとその身体を抱き留め、その場に座らせてすぐにスマイル自身が身に纏っている包帯を裂き処置を施してやるアッシュの表情は暗く沈んでいた。
ぐったりと弛緩した身体は真っ青に塗られていても分かる血の気の失せた顔は酷く痛々しい。
多少の事では命に危険は及ばない夜の住人である事に加え患部が手だった事で幸いにも死には至らなかったとは言え、銀の負荷も加わり相当の生き地獄を味わったに違いない。
「まさかユーリが此処までするなんて…やっぱり俺が残ってればこんな事には…」
「…バカ、僕なりに…頑張ったんだから、そんな事言わないでヨ」
銀の毒素が多少なりと抜けてきたのか、少なくとも口は聞ける様になった様だ。
口角を釣り上げて悪戯っぽく笑んでみせたスマイルは、過ぎた事を悔やんでも仕方ないとアッシュを窘める。
「…それより、どうだったの…?話…」
自身の身体などお構いなしに情報収集の成果を急かすスマイルに、アッシュはハッと我に返った様子で目を見開く。瞬く間にその表情には焦燥が現れていった。
「すまねっス、スマ…俺、早くユーリを止めに行かねえと…!…でも…」
説明している暇すら惜しいと言った様子の彼は、しかしスマイルをこのまま置き去りにしても良いものかとまごついている。
どうするかを迷う様に彷徨っているアッシュの視線は、次いで信じられない光景を捉える。
スマイルが立ち上がろうとしているのだ。失血と銀の負荷に本来ならば動く事すらままならないその身体で。
「スマ…!アンタ何やってるんスか…!」
「…僕も行かせて…、足手纏いになるかもしれないけど、このまま何も知らずに蚊帳の外で帰りを待つなんて、出来ない…!」
ユーリの兄たちによって齎された真実。
狂気に囚われたまま去ってしまったユーリ。
命を賭してまで関与してきたそれを放棄して、ぬくぬくとこの城で待つ事など出来よう筈もない。
頼み込む様な穏やかな口調とは裏腹に、彼の眼差しは連れて行けと有無を言わせぬものだった。
強い意志の宿った隻眼がアッシュを突き刺す。
「…アンタって人は…」
元より、此処の住人は揃いも揃って頑固なメンバーばかりだ。
最早執念という強い意思だけで立っているスマイルの身体を支えながら寧ろ感心すら覚えて溜め息を漏らしたアッシュは、すぐにその表情を真剣なものへと変化させて確認する様に静かに語り掛ける。
「ゆっくりしてる時間はありませんから、アンタをおぶって走りますよ。その間に教えて貰った事、全部話しますから」
「…うん。ゴメン、有り難う」
幾ら華奢な身体とは言え身長がそれなりにあるスマイルがガタイの良いアッシュに背負われる光景はどう考えても異常だ。
普段ならアッシュにおぶわれるのは死んでも御免だが、今はその様な我が儘を言っている場合ではない。
最善の手段がそれ以外にあればそうしたところだが、残念ながら見つからないので彼の言葉に甘んじて応じる事にしたスマイルは、屈んだアッシュの背中に体重を預ける。
「行きますよ」
スマイルの返事を聞く前に立ち上がったアッシュは、しっかりと背中に在る身体を背負い直したかと思うと人一人背負っているとはとても思えないスピードで駈け出した。
だが、不思議とスマイルの身体に負担はない。これでもスマイルを労わって控え目に走っているのだろう。
そのまま城を出た彼は、シャディの屋敷に向けて木々の間を擦り抜けながらやがて真実をぽつりぽつりと語り出した。
「…俺が、あの人たちから聞いたのは―――――」
**********
リィエルとギルディの住まう屋敷には、全速力で走った事もあり一時間とかからなかった。
すんなりとアッシュを出迎えた二人だったが、その憔悴しきった様子に尋常の無さを感じ取ったらしい。
「どうしたの?その表情、吝(やぶさ)かじゃないね」
「………ユーリに何か、あったのか」
兄である自分たちを尋ねる心当たりと言えばそれしかないのだろう。
「とにかく、入りなよ」
「…お邪魔します」
中へと促す二人に、アッシュは呼吸を整えながら軽く頭を下げ屋敷の中へと足を踏み入れる。
ユーリの記憶を隠していた相手にその内容について切り出すのはなかなかの覚悟を要するものだが、今は非常事態だ。
ソファーへと勧められるのを手で制しやんわりと断りながら、アッシュはその場に立ったまま単刀直入にその話題を口にした。
「…ユーリの、記憶の事なんですが」
「!」
一瞬で二人の顔に緊張が走る。
その一言で大体の事を察したのだろう。罰が悪そうに視線を反らしたリィエルの代わりに、ギルディが一歩進み出て険しい表情で答える。
「………それを聞いて、どうする」
「貴方たちがもし真実を知っているなら、分かるでしょう?ユーリが、シャディを殺そうとしてる」
嗚呼、と頭を抱えながら膝を折りその場に崩れたリィエルはギルディによってすぐに支えられる。
その反応はまるでこうなる事を予期していた様なものだ。
そして同時に彼等はそれを恐れていたのだろう。特にリィエルの動揺は只ならぬものだった。
しかし今は彼等の心情を気遣っている場合ではない。事は一刻を争うのだ。
「…話して、くれますね」
ギルディの腕の中で項垂れていたリィエルだったが、事が重大である事を既に察している彼は呼吸を整えながらやがて小さく頷いた。
「…元々、僕等は血の繋がりのある兄弟なんかじゃないんだ」
「何ですって…!?」