短文寄せ集め
「立春」
節分を過ぎ、季節は新たな春を迎える。頬を撫でるように吹いた風の暖かさに、近藤は回廊から土方を振り返った。土方は部屋の奥の壁に寄りかかり、寛いだ様子で立てた片膝に本を乗せ読んでいる。珍しく煙草を吸っていないのは、昨日から少し咳が出ているからだ。季節の変わり目だからだろう、と土方は何でもないように言う。咳をする度に近藤がやる視線が鬱陶しいと言って、距離を置きたがった。今も二人の間には手をどれだけ伸ばしても指先さえ届かないような距離がある。トシと名前を呼べば、ふと顔を上げ何だというように視線をくれるが、返事をしないのは声を出すと咳が出るからだ。涼しげな双眸を見つめ、こっちにこいと手招いて呼んだ。自分の隣にある陽だまりをぽんぽんと叩き誘うが、土方は迷惑そうな目で近藤を見るばかりで動こうとしない。焦れて、もう一度名前を呼んだ。トシ、と。土方は薄い唇を少しだけ動かすと、面倒くさいとそう言った。ひどく掠れた声で、言い終わった後二度、咳をした。近藤は立ち上がり土方の傍へ行くと、その脇へ腕を差し込んで抱き上げるようにして土方の身体を起こした。何をするんだと腕の中で土方が怖い声を出す。次いで近藤に文句を言おうとした声は、だが咳に阻まれて言葉にならなかった。近藤は土方の背を手の平で撫でるようにして叩くと、咳が治まるのを待って、ひょいとその身体を肩に担ぎ上げた。ぐらりと揺れた上半身に土方が近藤の首根にぎゅうと掴まる。少し息苦しくて、トシ死んでしまうと訴えると、首から離れ背中を掻き寄せる神経質そうな指先の感触に、近藤は少し笑った。回廊に戻り陽だまりの中へ土方をそっと下ろす。正座をするように座り込んだ土方の前へ自分も座って、どうだあったかいだろうと言った近藤に、土方はああもう、と微かな声を上げた。移っても知らねぇぞと怒ったように言うので、良いよと応えると、ごろりと膝に寝転んでくる土方の頭を撫でた。こんこんと小さな咳の音がやがて静かな寝息に変わるまで、近藤は土方の額に素直に落ちる前髪を撫で続けた。