短文寄せ集め
「さざなみ」
庭に一輪、椿の花が咲いた。赤い花だった。椿の季節にはまだ少し早い。いつもならば降雪と同じくらいに咲き始める花に、土方がぽつりと「狂い咲きやがった」と呟いた。他の枝にはまだ蕾の膨らみも無い。ただその一輪だけが綻んだばかりの花弁を、爽やかな初秋の空気に晒している。あんまり縁起が良くないからと椿の花を懐刀で落とした土方が、自らの手でその花を庭の脇の水瓶へ浮かべた。縁起がどうこうと嫌そうな顔をしたくせに、そっと水に花を浮かべた指先は優しかった。じっと見ていると、土方は濡れた指先から雫を振り払いながらうっすらと唇に笑みを刷き「昔好きだった女が、よく髪に赤い椿を挿していた。綺麗な女だった」と言った。嘘か本当か、分からなかった。ただ少し、胸にさざなみが立った。風が吹き、ゆらり揺れる椿を見下ろしている土方を後ろから羽交い締めにした。土方は少しだけ抗い、やがて「痛ぇよ、近藤さん」と諦めたような声を出した。「俺を絞め殺す気か」と訊くので、「トシが死ぬと困る」と答えると声を立て笑われる。土方は近藤の胸に背中を預け青く澄み渡った秋の空を見上げると、「俺はあんたの為に生きるよ」と真っ直ぐな声で言った。胸に打ち寄せていたさざなみが、引いていった。