短文寄せ集め
「紫陽花」
遅い入梅をした江戸の空は灰色の絵の具を流し込んだような色をしていた。朝から途切れることなく霧雨が降っている。庭の紫陽花がようやく色付き始め、薄い青色になったそれを見て、近藤が得意気に「土が酸性なのだな」と言った。それだけが色を決めるわけではないと知っていたが、そうか、と応えた。風が吹き、湿った雨の匂いが部屋を満たす。吹きさらしの回廊が濡れて、暫くすると隊士が雑巾を持って板張りの床を拭いにきた。朝から何度か見たその姿に「どうせまた濡れる。放っておけ」と言って、土方は部屋に入った。文机の前に座り書類を広げながら、近藤が雨の中、庭に下りていく姿を見る。近藤は紫陽花の植え込みの周りをぐるりとして、一番色の濃い紫陽花の花を一輪、鋏で切って持ってきた。「どうだ。綺麗だろう」と笑って、土方の部屋の柱に掛かっていた空の一輪挿しにそれを挿す。竹で出来た一輪挿しは花の重みに前に傾いで、頼りなく揺れた。自分の部屋に飾れよ、と土方が言うと、近藤は良いじゃねぇか、と言って障子を閉め部屋の中央にごろりと寝転んだ。部屋に吹き込んでいた風が止んで、柔らかな雨の匂いだけが残る。近藤に手招きされ、仕方なく書類を閉じて近寄っていった。抱き寄せられて、しっとりと雨に濡れた着物の襟に頬を寄せた。雨の匂いがする、と呟いた土方の髪を、近藤の大きな手がくしゃりと撫でた。「紫陽花の匂いだな」と近藤が言った。あぁそうか、と土方は頷いて目を閉じた。