be my baby
AM8:00
汚れた枕カバーを剥がしタオルと一緒に洗濯機へ入れていると、真斗が部屋へやってきた。急いで来てくれたのだろう。普段真斗が自室でくつろぐ時に着ている着物のままだった。
「突然呼び出してしまってすみません、聖川さん」
「それはかまわないが、緊急事態というのは」
「とりあえず中へどうぞ」
真斗を部屋に招きいれ、扉を閉める。二人の話し声に反応したように、テレビを見ていた音也が立ち上がり、走ってきた。
「マサだー!」
甲高い声を上げながら抱きついてきた小さな身体を真斗が慣れた手付きで抱き上げる。
幼稚園児の妹がいると言っていたから、元々子供の扱いには長けているのだろう。
真斗は抱き上げた音也の顔をじっと見つめると、暫くの間黙っていたが、やがて強張った顔でトキヤを振り返った。
「この子は…どう見ても一十木に見えるのだが…」
困惑した視線を受け止め、トキヤは黙って頷く。
「…何故か、起きたらこうなっていたのです」
「俺が昨日会った時は普通だったと思うが」
「ええ。私もそう思います」
抱き上げられていた音也が真斗の腕の中で体を捻り出す。真斗がそれに気付いて音也を床に降ろすと、音也は「おしっこ」と言ってトイレに行ってしまった。ちゃんと一人で出来るのだろうかと心配しつつ、真斗をテーブルの方へ促して椅子を勧める。
「何か飲みますか」
「いや。構わなくて良い。それより説明をしてくれ」
「ええ。説明と言っても、先程申し上げた通りで…実は私にもよく分からないのです。聖川さんに来ていただいたのは、あなたが一番信頼できると思ったからです。実はこれから用事で出かけなければならなくて、夕方まで私の代わりに音也の面倒を見ていて欲しいのですが、駄目でしょうか?」
「ああ、それは大丈夫だが…一十木がこのまま戻らなければどうするつもりだ。いつまでもこうして隠しておくわけにはいくまい」
「ええ、分かっています。それは…今日、戻ってきてから考えます。すみません…聖川さんにはご迷惑をお掛けしますがよろしくお願いします」
「分かった。一度部屋に戻って着替えてこよう」
そう言って真斗が部屋を出て行った後、トイレから音也が出てきた。
「…手を洗いましたか」
真斗を探すように部屋を見回している音也に訊くと、首を振るので洗面台に連れていき抱き上げて手を洗わせる。
「トキヤ」
「なんですか」
「マサは?どこ行っちゃったの?」
ハンドソープを泡立てながら音也が寂しげな声を出した。すぐ戻ってきますよ、と応えて音也の手の泡を洗い流しタオルで拭いた。
そのまま音也を抱いてテレビの前まで連れていき、座らせる。子供向けのアニメ番組がやっていたので、それを見せておいて、静かにしている間に出かける用意を進めた。
洗顔し着替えたところで、真斗が戻ってきた。
動きやすい服装に着替えて、手に何やら紙袋を持っている。
「それは?」
「妹にやろうと思っていたものだ。まさか役立つとは思わなかった」
袋の中身を見せてもらうといくつかの仕掛け絵本と童謡のCDが入っていた。
音也は真斗に呼ばれて袋の中身を見せられると、すぐに仕掛け絵本に夢中になり、真斗を座らせ膝の上に座り込んで、読んで読んでとせがんだ。
「演技の練習にもなって丁度良い」
真斗はそう言って笑うと、音也に本を読んで聞かせ始める。柔らかな真斗の声の合間に時々音也がきゃっきゃっと笑う声が、キッチンを片付けていたトキヤの耳にも聞こえてきた。
音也も懐いているし、これならば自分が戻るまで任せておいても安心だ。
トキヤは息を吐きキッチンを出て、置いてあった鞄を持ってドアに向かった。
その途端、音也が真斗の腕の中から飛び出してきた。真斗の手から落ちた仕掛け絵本を踏みつけるようにして駆けてくると、トキヤの足にしがみ付く。
「トキヤ、どこ行くの」
子供なりにどうもトキヤの様子がおかしいというのは感じていたのだろう。トキヤを部屋から出すまいというように扉の前に両手を広げて立ちはだかる音也に、トキヤは真斗を振り返った。
「…聖川さん、音也を」
「ちゃんと説明をしてやれ、一ノ瀬。子供は俺達が思うよりずっと敏感なのだから」
「………」
真剣な眼差しで見上げてくる音也の視線に溜息を吐いて、トキヤは音也の前に屈んだ。
「音也、私は仕事で出かけなければなりません。夕方には戻りますから、聖川さんとお留守番していてくれますね?」
視線の高さを合わせ、そう告げた。音也がぐっと唇を噛み締めて黙る。両手を広げたまま扉の前から退こうとしないので、「音也」と名前を呼んだ。
「…嫌だ。どこにも行かないで、トキヤ。行っちゃやだよ」
駄々をこねる音也の眼が潤んできて、とうとうぼろりと大粒の涙を零すと、声を上げて泣き始めた。顔を真っ赤にして泣いている姿を見ているとさすがに可哀想に思い胸が痛む。トキヤは小さな手で胸にしがみついてくる音也を抱き上げ、背中を叩いてあやした。
「お土産にお菓子を買ってきてあげますから。良い子で待っていなさい」
温かな耳朶にそう囁いて、真斗のところへ連れていく。音也はトキヤの首にぎゅうと抱きついて離そうとしなかったが、トキヤがその顔を上げさせ涙に濡れた頬に口付けると、泣きながら手を離した。小さな身体を真斗に預ける。音也は拗ねたように真斗の胸に抱きついて顔を伏せてしまい、トキヤが部屋を出るまで顔を上げなかった。
普段もトキヤが仕事に行く時、音也が寂しそうな顔をすることはあるが、こんなふうに泣いて引きとめられたのはもちろん初めてで、部屋の戸を振り返り廊下を歩きながら、後ろ髪を引かれるというのはこういうことを言うのかと、妙に納得した。
作品名:be my baby 作家名:aocrot