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(差分)クロッカスとチューリップ

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「猿比古、何ジジイみたいに膝なんかさすってんだ」
「成長痛」
「セイチョーツー?ってそこまで痛くねえだろ。どっか悪いんじゃねえの?」
「……ああ。美咲は足もあんまり伸びなかったみたいだしな」
「オォイ!?話すり替えてんじゃねえ!」

 毎日ゲームの話とオチのない愚痴ばかりの代わり映えしない毎日でも体だけは軋むほど変化していた。美咲が悔しがるから背が伸びるのはいいが、痛みでギクシャクする足も声変わりで思うように発声できなくなる喉も不便で仕方ない。

「それよりお前、ちょっと腕上げてみろよ」
「はぁ?」

 上げなかった。理由も言わずに急かされたからこっちに得がないのは疑うべくもない。

「すぐ済むからちょっと腕上げてみろっての」

 焦れた美咲が半袖の剥き出しの腕をとって肩より高く持ち上げた。ただでさえ熱いのに美咲の手のひらがまた熱くて迷惑極まりない。
 腕をむやみに高くあげさせたかと思うと肘に髪が触るほど顔を寄せて、言葉通りすぐ開放された。

「……今何見たんだよ」
「腋毛」

 自分と比べた結果がどうだったかなんて質問はしない。機嫌を損ねていないのが答えだ。美咲はすぐ顔に出る。
 質問の代わりに鼻で笑ってやった。

「ンなことしか気になることねえのかよ、ガキだなぁ美咲」
「あぁ?!名前で呼んでんじゃねえよ猿っ」

 美咲が掴みかかってきたその時、屋上の扉が開く金属の擦れる音がした。来訪者からは死角の階段室の裏で思わず息を潜める。膝立ちの美咲も同様で半端な体勢のまま静止した。

「屋上の扉って施錠されてないんだね」

 甲高い少女の声が言った。施錠されてないわけではなく、簡単にこじ開けられるものだったから、無断で開けて出入りしてるだけだ。
 どうやら男女の二人組だった。それがわかるとこれから起こることの察しはつく。
 案の定『テシガワラくん』が告白されて『ミヤワキさん』は断られた。

「部活に集中したいから、今付き合うとかは……」
「そう……ごめんね、サッカー頑張ってね」

 足早に去ったミヤワキの後で少し時間を置いてテシガワラが屋上を去るまで数分の出来事だった。

「サッカー部のテシガワラってうちのクラスじゃん」

 休み時間が終わる頃に教室に戻る途中、二つ隣のクラスで女子が三、四人うっとうしく集まっていた。中心で慰められている女がミヤワキだとすぐにわかった。いかにも女の子らしい見た目で大げさに悲しんだり友人に感謝したりと忙しい。したたかそうだと思った。
 その見立ては当たった。二週間も経たないうちにミヤワキが別の男と親しげに帰る姿を教室の窓から見た。おまけに、サッカー部が部活に集まるグラウンドの端でテシガワラが呆然と見つめているのも。

「ハッ、だっせ」

 短く、心底バカにした口調で美咲が嘲笑った。
 先日一緒に見た動物映画で目を潤ませていたとは思えないぐらいの冷たさで。

「好きとか言われて信じるからだ」

 週末、でかいテレビでゲームがやりたいからと美咲がうちに泊まりに来た。ついでに映画のDVDを借りてきた。CMでは派手なアクションシーンがクローズアップされていた洋画の吹き替え版だ。俺は興味がなかったから再生が始まって数分で風呂に立って、戻ってくる頃には別のアニメ映画が再生されていた。

「なんかつまんなかったから」

 タイトルでレビューを調べると、CMの印象とは大違いでストーリー自体はベタな恋愛モノだったらしい。見せ場のアクションシーンまで我慢するのも放棄してラブストーリーを拒絶する拗ねた背中を見ていると安心する。
 しばらく前に、美咲が女を助けた。気が弱くてノロマで、生物の授業の後に日直が二人で片付けるよう指示された水槽を一人で片付けるはめになった女子だ。相方はさっさと遊びにいってしまって、他の生徒もほとんど理科室を出ていた。女子の手には余る水の入った水槽をよたよた運んで、至極当然の流れで床に落として割った。
 たまたま一番近くにいたのでわずかにかかった水に舌打ちをした俺の横から美咲が走りだし、呆然として動けないでいる彼女の肩にぶつかって、彼女はもう一度悲鳴を挙げた。
 理科室前に留まっていた何人かが現場を覗いたのはその直後だ。美咲に突き飛ばされよろけた彼女と悪びれない美咲と床の惨状を見たら誰も彼女を責めなかった。準備室から様子見に出てきた教師もだ。
 教師に事情を聞かれた彼女は説明に困って美咲を見た。でも美咲は軽く睨んでそっぽを向き黙ったままで、俺は事情聴取に巻き込まれる前に一緒に教室を出た。俺が一緒だと教師は追求しづらくなる。それが美咲の計算に入っていたとは思えないが、水槽の件で彼女が責任を問われることはなかった。
 それで終わったならいい。こういうことは一度ではなくて、別の女子がカツアゲされている現場に割って入ったこともあった。女は苦手なくせに、母親のことがあってか、困っているのを見るのも苦手なのだ。
 助けられた側が恩知らずのまま、もしくは助けられたことにも気づかないバカのままなら良かった。
 でもノロマ女は礼を言いたそうにうろちょろした。事件から数日の間だけではなく、美咲に視線を向けていたのを知っている。美咲本人は気づいていなかったようだが。
 あれが万が一告白なんかしてこようものなら最悪だ。何かの間違いで美咲が改宗してどうにかなったらつまらない毎日がもっとつまらなくなる。

「今見てるそれは面白いのかよ」
「うーん?……あんまり」
「だろうな。公開された時レビューでボロクソ言われてたヤツだし」
「うぉい、知ってたなら借りる前に言えよ!」
「他の新作がすっからかんでそれだけ何本も残ってたらつまんねーんだってわかるだろうが」
「……っ!わ、わかってた!」

 意地になって映画に向き直ったが、すぐに飽きたらしくテレビの前を離れた。ベッドに座った俺の前で立ち止まり、いきなりスウェットのウエストに指をかけた。スウェットだけじゃない。パンツのゴムもまとめて引っ掛けて遠慮なしに引っ張られた。さすがに面食らって言葉も無い。
 風呂あがりの寝間着の股間にはひんやりと感じるぬるい空気が落ちてくる。

「…………何のつもりだよ」

 美咲は無言で自分のウエストのゴムも引っ張り覗きこんだ。脇を確認された時のことを思い出した。強風の日の教頭の次ぐらいには毛のことばかり心配している美咲がノロマ女のせいで変わるなんて、杞憂だったかもしれない。

「そういうことするからガキなんだよ」
「うっせ。お前だってホントはこういうの気になんだろ!」

 父親も兄弟もいないってことは物差しがないってことだ。相談相手がいない。うちも、両親は健在でもほとんど関わらない生活が長いから、わかる。相談相手ならネットに接続されたタンマツで十分だったけれど。
 数ヶ月前、最後に見た親の後ろ姿が瞬きする瞼の裏に映った。変声期でしゃべるのが億劫だったときだ。出掛けに目が合っても何も言わない俺をなんとも思わなかったみたいだった。
 美咲が自分の履物を引っ張っている手を上から掴んで固定した。自分も俺のを見たくせにビクついて文句を垂れたけど手を振り払いはしなかった。自分も見たから俺にも許す、ということらしい。