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(差分)クロッカスとチューリップ

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 一生色恋沙汰には関わらないで生きるんだろうと思った時、同時にセックスとも縁がないまま生きるのかもしれない、と落胆もした。あっても風俗。そう思うと落ち込んだり希望が見えたり情けなく思ったりと忙しく、一晩眠れないこともあった。
 一晩悩んでも男と遊びでベッドに入るなんて発想は一つも出てきやしなかったけれど。
 想定っていうのはあんまり役に立たない。
 しかも心配していたようなことは何も起こらなかった。学校でも猿比古の顔を見るたび変に意識してしまうとか、そわそわして周囲にバレるとか。猿比古は少しも変わらなかったし自分も平常通りの猿比古の隣で普通に過ごした。
 ただ、誘われて家に向かう道中の口数は減った。

「ちゃんと鍵かけてんだろうな……?」
「お前んちのふすまとは違うから安心しろよ」

 やるのは決まって猿比古の部屋だ。うちは鍵どころか遮音性も皆無のふすまで仕切られた狭い寝室しかない。いつも猿比古が後ろ手で閉めた扉が内側の秘密を守った。

(…………水)

 静かに目を覚ましたとき、眠りに落ちる直前の記憶がなかった。その日はいつもより疲れた。
 猿比古は横で背を向けて寝ていて、ベッドを降りても目を覚まさなかった。
 喉の渇きを感じて辺りを見回したが、空のペットボトルが転がっているだけ。仕方なくスウェットを整えてなるべく音を立てないようドアノブを回した。軽い手応えで扉は開いた。
 この家は両親と子一人の家族構成でどうしてこれだけ部屋が要るのかと思うほどに部屋があって、そのくせいつ来ても静まり返っている。家族のいない日を選んで誘われているのだとしても最近は最初から家族と同居してないんじゃないかと思うほど頻繁だった。男のいる時でも母親がめったに外泊してこないうちじゃありえないことだ。
 一階のキッチンまで降りてグラスに水をもらって戻るまで何の物音もしなかった。深夜でも本当に誰もいないみたいでゲームのダンジョンに入り込んだみたいだった。勇者の剣も魔法の杖も持たないまま放り込まれたダンジョンは夏の終わりとはいえやけに寒々しくて不安になる。
 幽霊にあうことも、窓を突き破ってモンスターが現れることもなく、ついでに猿比古の親と遭遇することもなく部屋に戻ってきた時には思わず安堵の息が漏れた。
 ドアノブについた内鍵のつまみを回す。カチャリ。

「あれ?」

 静かだからだろうか。施錠音がやけに耳についた。違和感を覚えて解錠と施錠を何度か繰り返す。
 さっき、この部屋を出る時に内鍵を開けただろうか。
 今日に限って猿比古が施錠を忘れたのか。

(鍵をかけたか訊いたのに?)

 几帳面というか神経質な猿比古がこういうことを忘れるとも思えない。
 そもそも、

(いつもこんな鍵の音、してたっけ)

 意識したことはないが、ドアの開閉はいつも猿比古がしていたから施錠を確認したことがない。内鍵のつまみはいつも施錠の向きになっていただろうか。

(オイオイ、下手したら親に踏み込まれてたかも……)

 でも実際には誰も入って来なかった。ベッドに上る前、下階で人の気配がしたこともあるし、両親の部屋も同じ二階だと聞いていた。
 そんな状況で何で鍵をかけなかった。
 思い出してベランダに出る。ベランダの冷たい床の隅に空き缶に入った煙草の吸殻が、ひと目でソレと分かる格好で残されていた。以前、二人で試しに吸ったヤツだ。美味さもわからず咽てすぐにやめたから長いままのシケモク。

『バレねえように処分しとけよな』
『うるせぇな……わかってる。すぐ捨てる』

 どれだけ前の話だと思ってるんだ。とっくの昔に捨てたんだと思ってた。他の空き缶に混ぜたら簡単に捨てられるはずだ。大体、自分が処分するといったのは猿比古だ。

(なんだコレ、なんだよコレ……まるで親に見つかって怒られたいみたいじゃねえか)

 うちの親だったらすぐにバレるしぶん殴られる。だから猿比古の家で吸ったし、エロいこともうちじゃやらない。

(バレたら困るんじゃねえのかよ。コイツの親ってエライ人なんだろ。怒られるどころじゃすまねえんじゃねえのかよ)

 ベッドでか細い呻き声が聞こえて慌ててベランダのガラス戸を閉めた。振り返ればすぐに大きなテレビが目に入る。高性能のパソコンと充実した本棚とディスクラック。どちらかといえばタンマツばっかりいじってるくせにゲームはひと通り揃っている。
 面白ものは何もないうちと比べたら歯ぎしりするほど羨ましい部屋。すごく大事にされてるんだと思っていた。何でこんなに沢山のものを持っていてもいつも退屈そうなのかって。
 俺は猿比古みたいに頭が良くないから、モヤモヤした思考の中で見え隠れする正解を上手く取り出して言葉に出来ない。出来たとしても何もしてやれないと思う。
 それから後も何度もこの部屋に来て抱き合って、思い出してドアノブを見ると施錠されていなかったけれど黙っていた。もしコイツの親に見られて面倒な事になってもそれでいいような気がしたからだ。
 胸の中の晴れない霧が濃くなるごとに、毎日が退屈で苦しくなるごとに部屋に通ってどんどん深みにはまっていった。