紅月の涙2
「…ユーリの記憶を、封じる。現在より過去、生前のものも全てだ。そしてこのまま俺たちの血の繋がった兄弟として育てる。疑問に思うのも最初の内だけだろう。時が経てば記憶を失くした事すら風化するかもしれん」
「でも、完全に記憶を封じる事は出来ないよ。何かが切っ掛けで記憶が戻るかも――」
「話は此処からだ。聞け」
予想の範疇だったのか、その手段に驚きも反対もしなかったものの、リィエルもシャディと同じ懸念を抱いている。ユーリが記憶を取り戻した時の事だ。
だが、シャディには考えがあった。
「記憶は幾重にも分けて封じる事が出来るそうだな。その方が一度に全てを封じるより容易なのだそうだ」
それは何とも後味の悪い方法だ。
だがギルディとリィエルの反対を押し切ってでも、彼はその考えを押し通すつもりだった。
弟たちの事を考えると鉛の様に重くなる胸を鷲掴みにし、迷いの一切を断ち切る様に目を伏せて語り出す。
「術が解けても、まずは俺が彼奴の両親を殺したという一点のみが蘇る様に仕向ける。真実は更に最下層に封じ込めておけば良い。そうすればユーリは俺だけを憎み、殺すだろう。仇を討ち、復讐を成す事で、彼奴は過去を清算する事が出来る。両親を死なせた罪悪を忘れたまま生を呪う事もなく、その記憶が真実だと何一つ疑わずにそれからを生きる事が出来る―――」
「…何を…、何を…言ってるの…?」
かちかちとリィエルの歯が鳴る音がする。
元々大きなその目を零れそうな程に見開いたとか思うと、彼はシャディの両肩を鷲掴みにして縋り付いた。
此処までに鬼気迫る彼の表情は、その半身であるギルディの命が失われようとしていた時以来見た事がない。
「そんな…そんな事したら、兄さんはユーリに殺されるんだよ!?」
「知っている。それは今言ったばかりだろう」
「死ぬのが…怖くないって言うの…?」
「俺は十分長く生きた。覚悟の上だ」
「どうしてそんな、他人事みたいに言えるの…!有りもしない罪で殺されるなんておかしいよ!!」
「有りもしない罪ではない!」
それまで淡々と返答していたシャディの唐突とした叱責にも近い怒鳴り声に、リィエルは身を竦めて黙り込む。
シャディは頭を抱えながら捩る様にして身体を折ると、言葉と共に胸の内の苦しみを吐露するかの如く呻きにも近い声を漏らした。その顔には苦悶の表情が滲んでいる。
「全ては俺が招いた事だ…俺が罪を背負い、心を殺して彼奴の両親を手に掛けていたならば…こうなる事はなかった。ユーリが生まれ、彼奴自身が生を呪う事もなかった。苦しむのは俺一人で済んだんだ…!罪のないユーリを、ギルを、エルを巻き込んだのは他ならぬ俺だろう!」
「…兄さん…」
「…すまない、エル。今回の事も全てが俺一人で行える事ならば良かった。俺の力不足でお前も加担させる事になってしまった―――だがお前に罪は背負わせない。その全てを引き受け、贖うのは俺一人で良い……俺の死でこの全ては決着する筈だ。……それで良いんだ。いや、そうするしかないんだ」
頭上から押し殺したような嗚咽が耳に届く。
大人しく話を聞いていたリィエルも限界だったのだろう。シャディの身体が彼の腕の中に収められ、きつく抱きすくめられる。
「それなら、僕だって…!僕にも罪はあるよ、兄さんだけを死なせるなんて、出来ない!」
「エル!」
嗚咽混じりに涙声で訴えるリィエルに胸を痛めながらも、シャディは決意を覆す事なく窘める。
大切な弟。それは決してユーリだけではない。
リィエルも、そしてギルディもまた、シャディにとってかけがえのない、最後まで守り抜きたい存在だった。
逆に、リィエルやギルディにとって、自分もまたかけがえのない存在である事をシャディは知っている。
現にリィエルはこうして苦しんでいる。罪を背負う必要はないと言ったが、彼はシャディが死んだ時、その死を差し向けた己の罪で更に苦しむ事になるのだろう。
そう、結果的にリィエルの術でシャディは死ぬ事となるのだ。その役目を押し付けなければならなくなったのは、己の力不足故だ。
自分が死ぬ事は怖くない。リィエルが苦しむ姿をこうして目の当たりにする事、そして自分が死んだ後も苦しみ続ける事が何よりも恐ろしく、辛かった。
それでもシャディは、何よりも大切な三人の弟たちに生きていて欲しいと望んだ。
「お前にしか、頼めない。お前まで死んでしまったら誰が残されたユーリを、そしてギルを支えるんだ」
「うっ…うう…」
「俺の死は決して意味のないものではない。結果的にお前の術で俺は死ぬのかもしれない。だがそうする事で、ユーリは生きる事が出来る。前を向く事が出来る」
真上から降り注ぐリィエルの嗚咽は徐々に大きくなり、水滴が頬へと滴るのを感じる。
それは遺される者の痛みであり。
卑怯だと思う。自分勝手だと思う。
自分は罪を贖うと銘打って、罪の象徴であるユーリを託して逃げるのだ。
だが、リィエルの術によってシャディが死ぬ事で、ユーリが救われるというのもまた事実なのだ。
ユーリが生きる事によって、リィエルの罪悪が和らぐかもしれないという希望を捨てたくはなかった。
「頼む、エル。ユーリを救ってやってくれ…」
「ずるい…っ…、兄さんは…、ずるい…よぉ…!」
己の身体に縋りながら泣き崩れるリィエルを、今度はシャディが抱き締めてやる。
シャディの意思は、恐らく彼に伝わっているのだろう。その上で、最後まで足掻いているのだ。シャディを死なせたくない一心で。
シャディは目の前にある翡翠の髪を撫でながら、あやす様にリィエルの小さな背中を叩いて目を閉じる。やがて零れた一筋の涙が、静かにその頬を濡らした。
「今すぐに死ぬ訳ではない。それまでは…いや、死んでもずっと、お前たちを見守っているから」
「…うわあああ…ああ……!!ごめっ…なさい…、ごめんなさい…!兄さぁん…!!」
ひたすらの謝罪と慟哭にも似たリィエルの悲痛な嗚咽は、一晩中に渡って静まり返った書斎に響いたのだった。
**********
「その翌日、僕は事情をギルに話して合意を得た上でユーリの記憶を二重に封じた。術が解けた時に兄さんが殺した事だけを思い出す様に」
「…俺も…反対した。許せなかった。だが…エルの方が、俺よりずっと、辛い」
「僕の心情を察して、ギルも強くは出られなかったんだ。そうして、僕たちは偽物の関係を今まで保ってきた」
これまでの間、リィエルたちはどれ程の罪悪を抱きながらユーリに接してきたのだろうか。
リィエルの今にも泣き出しそうな表情が全てを物語っている。
「記憶を封じた偽物の関係でも、兄さんも、僕たちも…ユーリを愛していたよ。特に、兄さんは…」
「…そうでしょうね」
シャディのユーリに対する愛情は、決して罪悪や責任といったもので括れるようなものではなかった。
垣間見ただけのアッシュでさえそう感じた程だ。間違いなくそれは本物だった。だからこそスマイルも、ユーリを精一杯止めようと身体を張っている。
記憶を戻せとは言えなかった。ユーリが苦しむのはアッシュとて本意ではないからだ。