紅月の涙2
だが、ユーリの過去を偽ったままで良いとは思えない。真実を知らないままユーリが死ぬまで生きて行くのかと考えると、どちらの道を選べば良いのか分からなかった。
とにかく、今はユーリを止めるのが先決ではないだろうか。このままでは、シャディが死んでしまう。
全ての原因がシャディにあったとはいえ、彼がいなければアッシュとスマイルの愛するユーリが生を受ける事はなかった。
ユーリを生んだ事を誇りに思いこそすれ、罪だと思って欲しくはない。
恐らくシャディ自身も今はそう思ってはいない筈だ。
ならばシャディが罪を贖うべく死ぬ必要はないのだ。
すぐにでも止めに向かわなければならない。
しかし、急いているアッシュとは裏腹に、リィエルは諦めたように項垂れている。
ギルディもリィエルに寄り添ったまま、動こうとはしない。
二人の様子に違和感を覚えずにはいられなかった。彼等はこのまま兄を見殺しにしようとでも言うのだろうか。
「どうして…こうなる事は分かっていたんでしょう?止めようとしないんですか」
「それが兄さんの望みだ……僕たちは、あの日にそう誓った」
「それに、ユーリに、どう説明する…?全てを離せば、兄さんの決意も、行動も…全てが水の泡になる」
二人の言う事は尤もだ。だが、それが兄を見殺しにする理由で良いとは思えない。
本人が望んだから?今までが無駄になってしまうから?
そんな事で割り切って全てを諦めてしまうのか。まだ兄は生きているのだ。我武者羅に足掻いて何としてでも生かそうとは考えないのだろうか。
シャディは二人にとってかけがえのない兄ではなかったのだろうか?その本人はたった今正に兄弟の為に死のうとしているというのに―――
「…ふざけんなよッ…!」
言うが早いか、アッシュはリィエルの胸倉を力強く掴んで持ち上げる。
彼の怪力でリィエルの身体は今にも浮いてしまいそうだ。
常に温和だったアッシュがこれほどまでに激情する姿を見た事などない為、二人は驚きの表情で絶句し彼を見つめるに留まっている。
「シャディはどうして死のうとしてるんだ!他ならない、愛するアンタたちの為だろ!?だのに当のアンタたちが他人面して、そんなにも非情になれるもんなのかよ!?離れて暮らしてる内に、シャディへの愛情までなくなっちまったっていうのか!?」
「…っ!」
「シャディはまだ、生きてる!死んでからじゃ、遅いんだよ…!生きてる内に出来る事をして、足掻いて、助けようって思うのが兄弟なんじゃねえのかよ!例え血の繋がりはなくっても、アンタたちはそれ以上のもので繋がってるんだろ!?」
正論だ。
二人はその言葉に少なからず揺さぶられながらも、ただ呆気に取られるのみだった。
シャディの兄弟なのはリィエルとギルディであって、決してアッシュではない。
寧ろアッシュとシャディは面識こそあるものの、親しいユーリの兄というだけでほとんど知り合い程度の他人だ。何故彼はそんな相手の為にこんなにも必死になれるのか。
逆にアッシュは燃える様な憤りを抑える事が出来なかった。
血の繋がりはないとは言え、話を聞く限りはそれを感じさせないどころかそれ以上の絆で結ばれているかの様に思えたのだ。
アッシュにもファズたち弟や兄といった血の繋がりのある兄弟が居る。
だが事情により離れて暮らしている事によって疎遠になっている自分からすれば羨ましいと思った程だ。
にも関わらず、二人はただシャディが死ぬのを黙って受け入れようとしている。二人の生みの親でもある、たった一人の兄を。
このままではシャディは弟に殺され、見殺しにされ、一人で果てる事になるのだ。本人の望みであろうと、そんな悲しい結末を受け入れる事が出来ようか。
彼はとことんまで情に熱い男なのだ。
「…もういい、俺が行く」
唖然とした様子で自分を見つめたまま放心状態にある二人に対し、アッシュはリィエルの胸倉を離すと盛大に舌打ちをして苦虫を噛み潰した様な表情を浮かべる。
「アンタ等は精々そこで、無力な自分達を呪ってれば良いんだ」
吐き捨てる様に皮肉たっぷりの言葉を残して足早に部屋を後にする。
当然二人は返す言葉もなく、ただ去り行く彼を視線で追う事しか出来ずにいた。
「…話してくれた事には、感謝する」
そう言い残して、アッシュは時間を惜しむ様に振り返る事なく外へと続く扉を閉めたのだった。
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「そんな…事があったの…」
アッシュから語られた事の真相にスマイルは狐にでも抓まれたかの様な表情で視線を彷徨わせる。
シャディが両親を手に掛けたのは事実だった。しかし、その裏に隠された悲しい真実に、彼を責める事など誰が出来ようか。
―――やはりあの時意地でも止めるべきだった。
拘束を解いて逃げられたのは、間違いなく自身の油断が招いたものだ。スマイルは血が滲む程に唇を噛み締め、後悔の責に駆られながら眉根を寄せる。
そんな彼の心情を察したのか、アッシュは前を向いたままで言葉を続ける。
「俺、バカだから、最後にカッとなってぶちまけるだけぶちまけて出て来ちまったっショ?スマなら冷静に対処出来ただろうに…やっぱり意地でも俺が残るべきだったんス。スマだけの責任じゃない」
「アンタはこうなるまで身体を張ったんだ、誇って良いと思います。それに実際、逃がしてしまった事を後悔するより、大切なのはこれからどうするか、でしょう?うじうじしてるなんてアンタらしくない」
「アッシュ…」
傷付いた自分への同情なのか、何時になく優しいアッシュの言葉にじわりと目元が熱くなる。
―――アレ、僕ってばこんなに涙脆かったっけ…
動機はどうあれ自分へと向けられたアッシュの優しさに、本当にバカなんだから、と悪態を吐きつつ小さく鼻を啜り背中に縋り付く力を強める。
彼の優しさや気遣いを無駄にしない為にも、絶対にユーリを阻止しなければならない。
「ユーリはもう、着いてるのかな…」
何よりユーリの事が一番気掛かりだ。既にスマイルが逃がしてしまってからかなりの時間が経過している。
兄を手に掛けて苦しむのはユーリだ。兄の思惑通りに復讐を成し落ち着きを取り戻したところで、真実を知るのも時間の問題に違いない。
また、真実を知らずとも兄を手に掛けた事に対する罪の意識が生じない筈がない。
急く気持ちが募り、自然とアッシュを唆す発言が口を吐く。
「アッシュ、僕の身体の事は気にしないで飛ばしちゃってヨ」
銀の作用により回復速度が遅れ癒えていない傷が痛まない訳ではない。意識を保っているのもぎりぎりで、振り落とされない様に縋り付くのがやっとだ。
アッシュはそれを知っていて全力を出さずに駆けている。それでは完全に足手纏いなのだ。
「…アンタって人は…」
アッシュはその大体を察して呆れた様に小さく頭を振る。スマイルの急く気持ちは分からないでもない。自分も、本来なら全力で走りたいと思っている。そしてそれを妨げている彼は、そんな自分に嫌悪している事だろう。
だが全力を出してしまっては間違いなくスマイルの身体に負担がかかる。それ以前に速度に耐えられず彼の身体は振り落とされてしまうだろう。