紅月の涙2
散々迷った挙句、アッシュは深い溜め息を漏らして一度足を止める。
「スマ、包帯を。俺の身体にアンタの身体を固定するっス」
「え、」
「アンタは屋敷に着くまでの間休んでて下さい。気を張って着いてからも動けない、じゃついて来た意味ないでしょう」
スマイルを背負ったまま包帯を巻き付けてぎゅっ、と腹できつく結び彼の身体を自分の身体に固定する。
状況が理解出来ていないらしく目を瞬かせるスマイルに対して良いから寝てろ、とぶっきらぼうに言葉を残し、自分の身体にスマイルの身体が完全に固定されたのを確認してからアッシュは再び走り出す。
スマイルは暫く呆気に取られた様子で彼を見つめていたが、やがて背中に体重を完全に預けて小さく溜め息を漏らした。
―――何さ、今日はバカみたいに優しいじゃない。
いつもはユーリを廻って戦争――口論を越えて殴り合い蹴り合いになる事も少なくはない――を起こす程の関係である彼が垣間見せた何時にない優しさに何とも言えない気持ちになる。
擽ったい、と形容するべきか。しかし決して悪い気分ではない。
この非常事態に呑気な事を、と自分でも思うのだが、自然と口元が歪んでしまう。
「フフッ…バカ犬」
明日は雪でも降るんじゃないの、と内心苦笑しながらも、スマイルは彼の言葉に甘える事にしてゆっくりとその目を閉じた。
―――"ユーリはきっと大丈夫"と信じて、暗澹へと沈んでいく意識に身を委ねながら―――
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シャディの屋敷に到着したアッシュと意識を取り戻したスマイルを待っていたのは、意外な人物だった。
「…遅かったね」
得体の知れない相手に初めこそ警戒し身構えた二人だったが、徐々に月明かりによって映し出される見知った輪郭に大きく目を見開いた。
「リィエル…ギルディ…!」
「アンタたち、何で…!」
二人を待っていたのは紛う事なきユーリの兄たちであり、シャディの弟たちである二人だった。
どうやら二人もたった今到着したばかりらしく、呼吸がやや乱れている。
だが、彼らはシャディの目的を阻止する事は出来ないと静観する事を決めていた筈だ。
どう言った心境の変化なのかとアッシュが問い質そうとしたその時。
真剣なリィエルの視線が彼を刺した。
「話は走りながらでも出来る、今は、兄さんたちの元へ急ごう」
「っ…はい!」
スマイルは腑に落ちないといった様子だったが、味方は一人でも多い方が良い。
彼等にも何かしらの変化があったのだろう、決して事は悪い様には転んでいないと、アッシュの表情は自然と綻ぶ。
立ち止まらずに駆けてきた疲労など微塵も見せない笑顔で大きく頷いて返答すると、彼はスマイルを背にしたまま二人と共に駆け出したのだった。
「場所の目星は付いてる。兄さんの考えそうな事からして、選ぶのは最上階の礼拝堂だ」
ひたすらに上を目指しながら、リィエルは冷静に分析した情報をアッシュたちに提供する。
周りに転がっている蝙蝠の骸が、既にユーリが彼らを倒して上を目指した事を物語っている。彼の情報に間違いはないと見て構わないだろう。
ユーリのその行動により妨げるものは既になく、上へ向かうのに然程時間は要しないようだった。
「それで…一体何がキミたちを動かしたっていうの?」
目先の事ばかりで心境を語ろうとしない二人に痺れを切らしたらしく、体力を徐々に取り戻しつつあるスマイルが納得出来ないと言いたげな表情で問い掛ける。
今まで耳にしたやり取りの全てはあくまでアッシュの見解を通したもので、彼が実際に会話した訳ではない。二人を信用しても良いのか彼なりに見極めているのだろう。
彼等は羽根を使って飛んでいるからか、呼吸一つ乱していない。
表情の一切を変える事なく、後ろめたさも隠すつもりもなかったのか、横目でアッシュを一瞥した後に語り始めた。
「…そこにいる馬鹿みたいにお人好しの犬のせいだよ」
「は、俺?」
当の本人は一切自覚がないらしく目を瞬かせている。
スマイルは合点がいったらしくやっぱりか、と小さく肩を竦めてみせた。
「……俺たちはあの後、……悩みに悩んだ……」
「あの時は本気で兄さんの意向に沿うべきだ、と思ってた。でも君は言ったよね。兄さんはどうして死のうとしてるんだ、他ならない僕たちの為だろ、って」
「……兄さんはまだ、生きてる…、死んでからじゃ、遅い。生きている内に出来る事をして、足掻いて、助けようと思うのが兄弟ではないのか……例え血の繋がりはなくても、俺たちはそれ以上のもので繋がっている……そうも言ったな」
「な、何かそれ、今改めてヒトの口から聞くと、恥ずかしいっス…」
アッシュは複雑な心境を面に出しながら、照れ隠しに頭をぐしゃぐしゃと掻き乱す。
彼は勢いに任せてほぼ無自覚に言ったのだから当然の反応だ。
だが、彼のその言葉が二人を突き動かしたらしい。
「…兄さんを、死なせたくない。それが僕たちの結論だった」
「…お前の言う様に、とことんまで足掻いて、ユーリも兄さんも救える最善の道を探すべきだと……気付いたんだ」
「要するに二人とも、このバカ犬のお人好しに取り込まれちゃったってワケね」
やれやれ、と呆れたように頭を振りながらも、スマイルの口元には笑みが浮かんでいる。
彼の中でも納得が行った様だ。
「…それで」
四人の中の蟠りが解消されたところで、彼等の表情は再び深刻なものへと変化する。
少々の沈黙を破ったのはアッシュだった。
「シャディさんは間違いなく、此処にいるんスか?俺の弟を先に向かわせた筈なんスけど」
「ファズとか言ったっけ?彼が止めに行ってくれたんだ…でも、間違いないよ。兄さんは最上階に居る」
リィエルの発言には確信が込められていた。どうやらファズではシャディを連れ出すには及ばなかったらしい。
それほどにシャディの決心は大きいものだったのだろう。
だが、それならファズは何処へ行ってしまったのだろうか?スマイルとアッシュの中には次いでその疑問が浮上する。
二人の顔に浮かんでいる固い表情にそれを察したらしいギルディがリィエルに代わって答える。
「大丈夫だ……気配は絶たれていない。……屋敷に居るのは確かだ……何処かで身を潜めているのかもしれん…」
ギルディの返答に、アッシュとスマイルの表情に安堵が戻る。が、すぐにそれは引き締まったものへと戻される。
ファズに関して想定していた最悪の自体は免れ一先ずは安心しだが、油断は出来ない。今はユーリの行動を止めるのが最優先事項だ。
上へと続く螺旋階段はまだ終わりそうにない。
四人の中にもどかしさだけが募って行く。
上る度に消耗されていく体力など、最早彼等に取ってはどうでも良い事だった。
「…血の匂いがする」
重々しい沈黙を継いで破ったのは、リィエルだった。
「あちこちで死んでるこいつらのとは違う、明らかに…吸血鬼のものだ」
彼はユーリに劣りこそすれ、吸血鬼としての能力に富んでいる。血の匂いも、嗅覚というよりは感覚レベルで嗅ぎ分けているに等しい。でなければ、此処から離れた最上階の血の匂いなど分かろう筈もない。
そんな彼の発言により、一同の纏う空気が一瞬にして凍り付く。