待宵メロドラマ
☆待宵メロドラマ (ブルームーンと藍鉄の話)
俺は、忘れない。燃えてしまいそうなほどに火照った頬を、そっと撫でた風が酷く冷たかったことも、雲ひとつ無い砂金を散りばめたような星空に、か細い三日月が、所在無さげに落っこちていたことも。
風の音さえ聞こえない、とても静かな宵闇に、抑えの効かない鼓動の爆音(おと)がこぼれ出してやしないかと、ひやひやしたあの夜を。この先、何度だって思い出すのだろう。
「好きです」
前を歩く藍鉄が、ふわりと微笑をつれて振り返る。同時に、中途半端なフレーズを残して、鼻歌は途切れた。サビの終わりまで、あと少しだったのに。驚かせてしまいましたねと微笑んだ綺麗な横顔は、何故か普段とは違って小憎らしく見えた。
前後脈略が無いことから、鼻歌の話だろうと推測し、「良い曲だよな」と然も当然のように答えたら、話を切り出した張本人は、肩を揺らしながら小さく笑い出した。まるで、俺の反応など想定の範囲内だったとでも言いたげな軽やかさで。
「違うんです。曲のことではなくて。曲も勿論、青さんの声調(トーン)に合っていて、とても好きですが。僕が好きだと言いたかったのは、あなたのことです、青さん」
青さんのことが、好きです。
その部分だけが、明瞭に聞こえた気がした。
「……驚くなって前置きされても、驚いてただろうな」
「そうでしょう、突然でしたから」
そもそも、そんなに淡々と。まるで、キャスターが為替市場の情報を読み上げるように、話すようなことじゃ無いだろう。非難の視線を向けてみるも、早々笑い飛ばされて、俺は完全に反論の切り札を失ってしまった。
「…………大体、一言、好きだとか言われたって」
やっとのことで絞り出した文句さえ、自分でも自覚するほどに言い訳がましく、がっかりする。俺たちのような『電子媒体(ボーカロイド)』にだって、恋愛の好きだとか友情の好きだとか、一言で表すにはとても不可能な感情が溢れているのだ。俺が伝えようとした意味合いを、理解したからなのだろうか。ふむ、確かにそうですね。相槌を打って、藍鉄は小さく頷いた。
そして。頬に、触れる。
熱くて、優しい感触に、俺は驚いて文字の通り飛び上がった。一瞬だけ掠めるように近付いて、あっという間に離れていった、甘い風が囁く。これで御理解いただけたでしょうか、と。
「それでは、青さん。また明日」
いつものように、『良い夢が見られますよう。』なんて、お決まりの口上を告げて、踵を返したその後ろ姿を、俺は呆然と見送った。冗談じゃない、こんな気持ちでひとり残されて、どんな夢を見ろって言うんだ。
*
「それは恋の病だねっ」
茶化すようなパンキッシュの浮かれ口調に、目眩、それから嫌気が差した。話して聞かせる相手を、絶対に間違えた。自業自得なのだと言われたら、そこまでの話になるけれど。「もういい」とだけ答えて歩き出した俺を、弾む笑い声が追いかけてくる。
「ああもう、怒らないでよ、ブルームーン。昨日の練習の帰りに、突然告白されて、突然キスされたって。相談してきたのはそっちじゃん」
「そうだな、相手を間違えた。だから、もういい。」
キッパリと言い放って振り切ってやったのに、首根っこを捕まえられた。センパイの言うことは聞いておくものだよなんて笑うその実は、年増のような扱いをするとキレる、ただのお節介だ。
「それで?当然、俺も好きだーッて答えたんだよね?」
「……いや、特に、何も」
はァともえェとも表現しがたい、素頓狂な声をあげて、呆れ顔が俺を覗き込む。なぜ応えなかったのかと問われても、理由なんか一つしか有り得ない。
藍鉄(あいつ)のことが、嫌いなわけじゃない。それだけは、間違いない。楽しい時、泣きたい時、いつだって一緒に過ごして乗り越えてきた、同期(なかま)だと。そう思っていたはずだったのだから。
『青さんのことが好きです』 それなのに、そのたった一言が、確かな脈拍を掻き乱した。
宵の向こう、溶けるように見えなくなった後ろ姿を、見送ったあの瞬間から、ずっと考えている。俺の「好き」は、藍鉄の言う「好き」と、同じなのだろうか。もし、違うのだとしたら、どうしてこんなに身体中の血液が、沸騰してしまいそうなほどに熱いのだろう。分からない。
我が後輩ながら情けないなぁと、パンキッシュは腹を抱えて笑った。残念なことに全くもってその通りで、ぐうの音もでない。悔しさで噛み締めた唇を細い指が撫でて、先程とは打って変わったような微笑が、俺を真っ直ぐに見やった。
「ねえ、知ってる?恋愛はね、ゲームなんだ。落ちた方が負けなんだよ」
どこかで聴いたことがあるような一節を、パンキッシュはまるで歌うみたいに告げる。
「だって、だーいすきな練習が上の空になるくらい、ずっと藍鉄くんのコトを考えてるんでしょ?それって、もう、ゲームセットじゃないかなぁ」
必死の形相をしているのであろう俺を見やって、ただただ世話焼きだけが大好物のセンパイは、耳元で苦笑した。
君の負けだよ、ブルームーン。
*
ところで、これは一体。出された緑茶から立ち上る湯気を、呆然と見つめる。一世一代はオーバーな表現かもしれないが、覚悟をした。もし、藍鉄が「昨日のはなし」に触れたなら、自分なりの言葉でそれに答えよう、と。普段は何の気なしに開ける玄関の戸が、倍重く感じるくらい緊張していたのだ。
けれど、玄関で俺を出迎えた藍鉄は、いたって普通だった。「いらっしゃい」とニッコリ笑って部屋へ促すと、普段通りに茶と茶請けを手際よく準備し始める。俺たちの間に、今までと違う何かがあったというような空気もなく、思わず脱力した。もしかしたら、昨夜の出来事は全て、夢(フィクション)だったのかもしれない。頭の隅っこで、そんなことを考え始めている。
「青さん、どうしました?茶柱でも立っていましたか?」
のんびりとした声に呼ばれて、ついと顔を上げた。先程からずうっと長い間、身動きもせずに湯飲みを見つめていますけど。卓の向かい側から、見せてくださいと身を乗り出した、その両肩を押さえて、「そんなわけあるか」と遮る。
「大体、茶柱が立ったらイイコトがあるだなんて、そんなの迷信だろ」
「おや、青さんは、そういう俗話がお好きなのだとばかり。……まあ、でも、そうですね。嬉しそうな表情には見えませんでしたが」
なにかとても深刻そうでしたよと苦笑する、その口調に「お前のせいで、昨日は良い夢なんか見られやしなかった!」と思い切り噛みついてやりたくなったけれど、さすがに八つ当たりは情けない。文句はまるごと飲み込んでしまおうと、思っていた筈なのに。
「誰のせいだよ」
思わず零れてしまった言葉に、二人揃って瞳を大きく見開くハメになった。気拙い沈黙は、ほんの数十秒だったようにも、五分近くあったようにも思う。先に、その重苦しく淀んだ空気を吸い込んだのは、藍鉄の方だった。
「……ええと、もしかして、昨日のことでしょうか。さすがに、伝わっていると思っていました」
「伝わらないワケねーだろ!あ、っんなこと、しておいて!鉄が飄々としてるから、俺が浮いてんだよ!」