幻影桜花
声に導かれるまましえみは走り続けた。どんどん山の奥深くへと入り込んでゆく。生い茂った草木の合間に人の手により作られた道が辛うじて学校とこの場所を繋いでいる。郊外学習で幾度も通ったことがあるが、不意に途切れた道に急激に不安感が押し寄せてくる。これ以上進めば迷いかねない。後ろを見れば、まだ視界に道が見える。どれだけ進んでも声の主は見当たらないし、馴染みのある場所だとしても日が傾き始めた今は危険でもある。
(これ以上先は行ったことないし、危なくなるよね)
しえみが立ち止まり、引き返そうとした時だった。ふと、視界に映ったのは、一つの巨木――桜だった。
辺りの木々は青く生い茂っているのに、その木だけが冬のまま時間を止めていた。大人二人がかりで腕を回したとしても到底届かないほどしっかりとした幹には薄汚れてはいたが立派なしめ縄が巻かれ、根元に朱色の屋根が付いた祠が祭られてあった。しえみの傍を吹き抜けた風が紙垂を揺らす。どうやらこの木は御神木として祭られていたようだ。祠の前には真新しい供物が置かれ、いまだここを訪れる人がいるようだった。しえみは木に近づくと幹に手を伸ばした。幹の中央にひび割れた個所があった。サクラは傷つけるとそこから腐りやすい性質を持つ。おそらく、この木が枯れた原因は幹についたこの傷が原因であろう。
「かわいそうに……」
そう呟いた瞬間だった。静かに佇んでいた幹から突如枝がのび、しえみに向かって襲いかかってきたのだ。彼女の口から悲鳴が漏れた。
雪男と廉造が裏門にたどり着いた瞬間、聞こえてきたのは甲高い悲鳴だった。二人は顔を見合わせ、頷きあう。
「ねえ、さっきの悲鳴、杜山さんの声に似てなかった?」
「え……?あ、そう言えば、さっき山の方に」
花壇の前にいた生徒の声に雪男は息を飲んだ。
杜山しえみ――彼女とは幼いころからの知り合いであり、神社の氏子の一人でもある。
(しえみさん?)
急激に不安が押し寄せてくる。
「若先生、」
廉造が心配そうに顔を曇らせている。雪男は唇を噛みしめると心の中で彼の名を呼んだ。
(――“燐”、力を貸してくれ)
「志摩君は此処に残って彼女たちを安全な場所へ。出来るだけ遠くまで離れて」
「分かりました。戻ってきたらすぐに援護します」
花壇にいた生徒たちを校舎に誘導し始めた廉造を残し、雪男は走り出した。胸に抱えた「倶利伽羅
が熱い。強く抱きしめ、禍々しい気配の元へと駆けだした。
びりびりと空気が震え、重くのしかかってくる。息が出来ないほど空気が緊張している。奥に進むほど酷くなる。生き物の気配がない。しんと静まり返った空間は不気味であり、嵐の前の静けさのようだった。
視界が一気に開けた瞬間、目に飛び込んできたのは一本の朽ちた樹。そして、その木に絡み取られた人影に息をのむ。
「しえみさん!」
彼女の身体をびっしりと覆っているのはいくつもの根である。雪男が近づいた途端、樹が大きく揺れはじめ、それは次第に地面まで到達し、地響きを引き起こす。
まるで雪男を拒絶するかのように揺れ続ける。立っていられないほどの揺れに膝を折るが、原因である樹から視線を外さず、じっと睨みつめる。だが、動けない雪男目掛けて太い根が突如として襲い始める。鋭い矢となり飛んでくる。咄嗟に避けるが、揺れのせいで上手く動くことが出来ない。目の前に迫った刃に目を閉じたときだった。ふわりと柔らかな風が雪男を包み込む。甘やかなそれでいて凛と澄み切った空気。覚えのある気配に目を見開く。見えたのは清廉な白だった。
「――燐?」
細い背中が雪男の呼びかけに振り返る。見えたのは深い青と呆れた様な表情だった。
「何回言えば分かるんだよ?危ない時は俺の“名”を呼べって言ってるだろ!よりにもよって渾名を呼ぶ奴があるか!」
閉口一番が叱責とは気分のいいものではないが、非があるのは雪男の方なのだから素直に謝るほかない。差し出された手に掴まり立ち上がる。渋々ながら謝れば山桜の化身は仕方がないと肩を竦めた。
「――雪男、下っていろ。お前では相手にならない。あれは俺と同族の神だ」
「枯れてしまったのか?」
「いや、まだ死んではいない。――時間の問題だろうが、かなり危うい。場を穢されたからだろうな」
「場?」
「場とは俺達にとって力の源と言っても過言じゃないんだ。人がむやみに踏み言ってはならない。本来なら、この山全体が神域となるのにもかかわらず、人が土足で上がり込んだために穢れを負った。あの木はおそらくこの一帯を護る神だったんだろう。山が負った穢れを自らの身に引き受け、枯れたんだ」
――その穢れの多さに耐えきれず、鬼と化そうとしている。
燐の呟きに雪男は唇をかみしめた。この桜の樹が枯れる原因となった穢れはこの学校に他ならない。人が神域を犯したために、この樹は鬼と化そうとしている。人の破壊が彼らを追い詰めている。その事実が悲しかった。
ざわりを樹が揺れ、同時に酷い耳鳴りがした。樹が蠢きまたしても太い根がこちらに向かって伸びてくる。よく見ればそれは枝ではなく髪だった。長い黒髪が地面を這い、燐に向かって伸びてゆく。
「燐!」
思わず叫んでいたが、彼は表情を変えることなく静かに佇むばかりだった。
「――雪男、お前は動くな」
樹から伸びた髪が彼の身体を絡め捕る。そして聞こえてきたのは、しゃがれた老婆のような声だった。
(そなたは、誰そ?何処より参られた)
辺りの空気が騒めいた。燐は身体に巻きつく髪をそのままに真っすぐ同胞を見据えている。
「北の森だ」
(北……、かの杜には人により名で縛られた哀れな霊木があると聞くが、そなたのことか?)
女がほっと笑ったのが分かった。
「確かに名をもらったが、縛られた記憶はない。俺は、俺の意志でここにいる」
(戯言を。言葉遊びをそなたとする暇はない。去ぬ)
「用件が済めばすぐ去るさ。――だが、その前にその娘を返せ。今ならまだ間に合う。人を食えば最後、お前は鬼と化す」
――人を食う。
雪男は顔を強張らせ、古木に捕らわれたしえみを見上げた。彼女の身体を覆う根は今にも食いつくそうとしているようにも見えた。焦る雪男を引き戻したのは山桜の化身だった。じっと雪男を見つめ、その唇が小さく囁いた。
『心配ない』
それだけなのに心が軽くなる。
(――そなたに何が分かる!嫌いじゃ!そなたは嫌いじゃ!)
長い黒髪が燐の手首を締め上げ、次いで首まで達したそれがさらに締めあげる。雪男は声を上げたが、彼は一度視線を向けてきただけで何も言わない。否、音に出さず「動くな」と囁いただけだった。
その時、ふと見えた映像に雪男は息を飲んだ。
目の前に立つ樹は、葉をおい茂らせ、悠々と立っていた。色とりどりの衣を纏った女が一人、樹の中で微笑んでいた。白い透き通るほどの肌と艶やかな長い黒髪。紅を引いた唇に乗せたのは小さな子守唄だった。その声は小さいにも関わらず、山の隅々まで響き、山に住むもの達は皆彼女の歌声に耳を傾ける。山の奥に静かに立つこの樹は山の主だった。春になると満開の桜を咲かせ、訪れる人々を楽しませてきた。山里に住むもの達もまた、この樹を神と崇め祠を建立し山に入るたび供物を捧げ、感謝の言葉を捧げた。