私に帰属せよ
シャーロックは絶句した。目を見開き、口をポカンとあけて、身体をピタリととめて、まるで絵画か何かのように静止してしまった。それを見ていたシェリングフォードの口からは笑いが漏れ、体を震わすと、ついに耐えきれないといったように大笑いを始めた。
「ク、アッハッハッハ、そこまで反応されるとは私も伝えがいがあったな! それと、最初にシェリングフォードと名乗った理由は、わかるだろう。君と同じ名前でややこしいだからだよ。さてホームズ君、伝えることも伝えたし、じゃあさっき家主も帰れといっていたしお言葉通り私は帰らせてもらおうか」
「っ待て! 待つんだ、ジョンを失う? どういうことだ! 説明しない限りこの部屋からは出させないぞ」
愉快そうに立ち上がって部屋から出ようと扉へ歩き始めた彼の肩を掴んで、シャーロックは唸るようにいった。シェリングフォードは顔を少ししかめて振り返った。
「わかった、わかった、説明しよう。だからその手を放してくれないか。君もおそらく私を観察していて気付いただろうが、今私は右肩に深い傷を負っていてね」
その言葉に、渋々といったようにシャーロックが自分の椅子に戻り、両脚を椅子の上に引き上げて、両手を顔の前に寄せた。ようやくまともに聞く姿勢を見せたシャーロックに、シェリングフォードは笑顔を見せ、先ほどまで座っていた椅子に戻り、機嫌よくしゃべり始めた。
「それでは! 説明しよう、シャーロック・ホームズ。21世紀の諮問探偵!」
「コンサルト探偵だ」
「失礼。コンサルト探偵……そう、まず私の背景を説明しよう。先ほどいったように、私の名前はシャーロック・ホームズ。ヴィクトリア時代のイギリスはロンドンの221Bに、元軍医であったワトソンと同居していた」
「なるほど、ヴィクトリア朝のときか。それで服が……いや、『いた』?『いた』とはどういうことだ? ジョンは、いや、お前の『ワトソン』は」
「そう焦るな。いずれ話の中でわかる。
さて、ホームズ君。私はとある日、いつものように実験の成果を書きながら気絶するように眠っていた時、君と同じような夢を見た。シェリングフォード、本名シャーロックホームズと名乗る英国紳士が夢に現れたのだ。彼は私や君と同じような髪色だったが、後ろに髪を撫でつけていたよ。そして、私と同じ時代の人間だった。といっても、私は彼と会ったこともみかけたこともなかったがね。そして彼はさっき私が君にいったことと同じことをいったんだ。『ジョン・ワトソンを失う心の準備をしておけ』と」
それまで陽気にしゃべっていたシェリングフォードの顔に一瞬暗い陰がさし、無意識にシャーロックはつばを飲み込んだ。
「それで、どうしたんだ」
「どうしたって、私がか? そうだな……私はあの時、"No"といったよ」
「"No"?」
「そうだよ、ホームズ君。それは『あり得ない』という意味でもあったし、『嫌だ』という意味でもあった。
確かに最初は家賃を折半するためだけだったかもしれない。しかし、君と君の親友の間に今までいくつもの物語があったように、私と私のボズウェルの間にも、また違った出会いが、物語があったのだ。
彼を失うということ、それはすなわち私の心の欠落であり、彼のいない221Bであり、私の隣に彼がいないということだ。そんなもの嫌に決まっているだろう!」
熱をこめたシェリングフォードの言葉に、知らず知らずのうちにシャーロックは頷いていた。あのライヘンバッハ事件のときから、彼を助けるためとはいえ、ジョンと離れて、それまで自分が考えていた以上にシャーロックにとってジョンは必要不可欠なものだったのだと気付かされることになった。自分たちのあのフラットではないということに飽き足らず、何かにつけて自分が「ジョン」と呼んでしまうことに気づいた時の、そしてそれに返事がないことに気づかされた時のあの途方もない虚しさといったら!
「わかってくれるか。ああ、それでこそ『ホームズ』だ。……しかし、私は同時に気づいてもいたのさ。いくら境遇が似ていようと、君の友人がどのような性格まではわからない。だが私の助手は、事件に遭遇するスリルを楽しみながらも、同時にそれに辟易していたよ。だから、私はシェリングフォード氏が来る前から頭の片隅で予期はしていた。いつか彼は、221Bからいなくなってしまうんじゃないか、とね」
「そうか。それで、君の助手は離れていったと。そして失う準備をしておけと……。ジョンに限ってありえないな。彼は根っからのアドレナインジャンキーだ。『危険』を楽しんでいる。辟易なんてするはずがない」
「ほう! そちらの彼も面白そうだな。しかしそうじゃないんだよ、ホームズ君。それが理由じゃないんだ。
さて、シェリングフォード氏は、私の顔を見て、私の記憶を垣間見て――ああ、警告者『シェリングフォード』になった者は、担当になった『シャーロック・ホームズ』の記憶が見れるんだよ。だから私も君が明日君の親友に会いに行くと分かったわけだ。そう嫌な顔をするな。いつか君も別の『シャーロック・ホームズ』にすることだ。これはもはや、シャーロックホームズのシャーロックホームズによるシャーロックホームズのための伝言ゲームのようなものだからね」
「……伝言ゲームは、人を介すたびに伝える言葉が変わっていくものだろう」
「無駄なあがきはやめたまえよ、ホームズ君。それに、例えば私と君のような細やかな表層的な違いはあるとはいえ、『シャーロック・ホームズ』の名前を冠した者たちがたかがさっきの一文を脳に刻み込むことができないとでも?
話を戻そう。私の顔と記憶を見たシェリングフォード氏は、私の不安に気が付いたんだろうね。そして不安を取り除くようにこう言った。
『ホームズ君。君の相棒は君を嫌って出ていくわけではない。といって、彼が死ぬわけでもない。彼は家庭を持つんだよ』、とね」
「……家庭?」
「そう、家庭、ファミリーだよホームズ君。シャーロック・ホームズの唯一無二の親友であり同居人であるジョン・ワトソンは、大体どの世界でも大切な女性と愛を育み、結婚して、家庭を持つんだ。そして、探偵と助手という関係は解消される」
そのときシャーロックが受けた衝撃は言葉にできないほどであった。確かに彼の相棒であるジョンは、女性が好きだったし、いつか結婚して家庭を持ちたいと考えていることは明白だった。いつも恋人として付き合っている初期段階でシャーロックが故意でも事故でも邪魔に入って結局破局してしまっているが、しかし――。
「そう、君はライヘンバッハの事件から君の友人の隣にいない。つまり、友人の自殺に傷ついた彼の心が、女性との愛で癒されるのにはぴったり、というわけだ」
再びシャーロックは絶句した。マイクロフトには、ジョンに危機が迫っていないのなら彼のことは逐一連絡しなくていいといってある。そうでないと彼のことばかり意識が向いてしまうからだ。まさかそれが仇になるとは!
思わず彼は呻くように言葉をこぼした。
「結婚なんて人生の墓場だ……!」
「心の底から同意するよ、ホームズ君」
「女性と結婚して出ていくだなんて、なんでだ、ジョン!僕がいるだろ!」