serenade
ロイの煩悶などとは関わりなく、世の中は絶えず動いている。だから彼が今どんなに悩ましい問題を抱えていたとしても、そんなことは世の中からしたら全く関係がないのだった。
――いわゆるファーストレディというものは一般的により女性的な分野において名誉職についていたりするもので、それは軍権主義のアメストリスにおいても例外ではない。むしろ軍の色が濃いからこそカモフラージュとしてそういうものが強調されるということもあるのかもしれないが、それは社会学者の考えることで、ロイがどうこう論じるものではなかった。少なくとも、第一には。
とにかく、つまり、大総統夫人がアメストリス蘭協会、などという平和で典雅な協会の名誉総裁を務めているのはそういう事情で、その総会がイーストシティで行われること、そこに名誉総裁がやってきて開会の挨拶をすることはその延長線上にある、そしてロイにも関わりのあることだった。自然、警備の責任者の役割はロイに回ってくる。グラマン中将は事前にこの事態を察知したように腰痛を訴えていた。女を武器にするというのは聞く話だが、彼の場合は時折老人であることを武器にしている気がしないこともない。
…本当は、内心まで年老いてなどいないものを。
「…まいったな」
はあ、とロイは溜息をつく。
どんな行事が行われようと淡々と任務を果たすだけだが、大総統夫人の臨席があるとなると少々気が抜けない。大総統本人でないだけましかもしれないが、彼女だって立派な要人だ。既にいくつかのテロ団体からなかなか刺激的な手紙が届けられており、ロイは頭が痛い。テロ団体の資金源はどうなっているんだろうかと真面目に考えてしまう。活動をするのにも結構な金がかかるはずだが、彼らはどのように生活をまかなってなおかつ武器弾薬の類を調達するのだろうか。少し、軍の経理あたりにそのノウハウを教えてやればいいのに。…そこまで考えて、ロイは気分転換の必要を強く感じた。
「…今日は昼を食べているかな」
ふと、現実逃避気味に思い浮かべたのは、二日前にエルリック兄弟の片割れと偶然顔を合わせたことだった。エドワードの昼食を買出しに来たのだといっていた。たいしたことはないと話していた気がするが、その後どうだったのだろう。
一応、エドワードからはその後昼の礼だと電話があった。ただ、ロイが席を外していたので副官を通した伝言ゲームになってしまったのだ。だから直接声を聞いていない。顔を見なくても声から体調を察することも出来るが、声さえ聞いていないとあっては判断のしようもなかった。
「……」
そっと、胸ポケットから手帳を取り出す。手紙はきれいに折り畳んで、そこに挟んでいつも持ち歩いていた。静かに開いて、その文面を視線で追う。エドワードの報告書の元気一杯の癖字とは似ても似つかない、女性的で流麗な文字。
「わたしの愛するエドワードを愛するあなたへ。
初めまして、あの子の大切なあなた。
この手紙をあなたが受け取る頃、わたしはこの世にいないでしょう。きっとそうなると思います。わたしは、もうすぐいかなければいけないから。あなたに会えないことをとても残念に思います。
あの子は意地っ張りで、天邪鬼で、ちょっと乱暴だけど、とても優しい子です。素直になれないのは、きっと、あの子の父親が家に戻らなかったせいもあると思います。強がりなのね。
でも、きっと、あの子を愛してくれているあなたならわかるでしょう。そう思います。あの子の本当を見つけてくれて、あの子を大事にしてくれてありがとう。
わたしがいなくなったら、あの子はとんでもないことをするかもしれません。なんとなくそんな気がするのは、母親の勘なのかもしれない。アルフォンスよりも、エドワードの方が無茶をするような気がして、わたしは心配です。その時、わたしはそばにいられないから…。
どうか、あなたにお願いします。わたしの大切なエドワードを愛するあなたへ。どうか、あの子をこれからも愛していてください。無茶もするし、意地っ張りだし、素直ではないし、何をするかわからない子だけど、寂しがりで、優しくて、純粋なところもあります。親の欲目とお思いでしょうけれど、どうか、愛して、大事にしてほしい。
どうか、名前の知らないあなた、わたしの大事なあの子を愛するあなたへお願いします。」
「――トリシャ・エルリック…」
ロイはゆっくりともう一度文字を追った後、そっと手紙を折り畳み、また元の場所に戻した。
こめかみを押さえるようにして考える。
この手紙は、なんなのだろう。悪戯というのが一番考えられるが、悪戯だとしたら書いた人間の意図がつかめなさすぎて不気味である。そして悪戯ではなかったとしたら…、エルリック兄弟かその関係者の誰かがこの手紙を隠しもっていたか、あるいは、時間を超えて手紙を出す手段が存在するか…
「…ばかばかしい」
そんなことがあってたまるだろうか。ありえない。時間は錬金術でどうにかできるものではないはずだ。
はあ、ともう一度溜息をついたら、ロイの現実逃避の休憩は終了だった。
夕方になって、いくつか急を要する会議の予定が立った。中には例の警備に関連するものも含まれていた。もう少し早くにわかっていれば他に予定の組みようもあったものを、と忌々しく舌打ちしても始まらない。
「ハボック。夜はおごってやろう」
とりあえず憂さ晴らしとして手近な部下に声をかければ、素直なのはいいことである、まじすか、と食いついてきた。隣で眉を顰めているブレダは落ちを読んだようだが、そのあたりハボックは素直である。
にやり、とロイは笑い、種明かし。
「ああ。食堂のスペシャルディナーボックス」
「うえっ、まじっすか、それは勘弁してくださいよ!」
悲鳴を上げる部下にいよいよロイの笑顔も冴え渡る。
「ああ。人数分頼んでおくから、運んでおけよ」
この台詞で、がたっとブレダも腰を浮かせた。ファルマンも手に持っていたファイルを取り落とし、フュリーの眼鏡がずれた。ただ、中尉だけが変わらない。彼女はさらにこの結末まで予見していたのに違いない。
…大体、ロイのスケジュールの大半を管理しているのは彼女なのだし。
「人数分て、ちょっ…どういうことですか大佐!」
「ハボック、ブレダ、ファルマン、フュリー、私、だ」
そこで中尉がなぜか軽く目を瞠った。しかし、彼女が何か言う前にロイが口を開く。
「中尉は帰宅すること。君、このところ随分帰りが遅いだろう。たまには早く帰りなさい」
このまともすぎる発言に、中尉は愕然とし、他の部下は気味の悪そうな顔をした。ロイの口から出るにはまともすぎる発言だと腹心の部下たる彼らは正直そう思った。
「…なんなんだ、何が言いたい」
その微妙な空気を読み取って、ロイはやや不機嫌に、部下達に向けて問う。なあ、と視線の遣り取りを経て、大佐、と溜息混じりに呼んだのはある意味一番頼りになる存在。彼の副官である、ホークアイ中尉だ。
「熱でもおありですか?」
「…どうしてそうなる」