serenade
ぷい、と横を向くのにくすくす笑いながら、ロイは、自分の中でその、戸惑いを生むばかりだった感情がゆっくりと揺られて円みと深みを増していくのを感じていた。少しずつ深みを増して、例えば酒が旨味を増していくように。そんな風に、心の中で居場所を見つけて、なじんでいっている。まるで初めからそこにあったかのように。いつの間にか。
「…そういえば。鋼の、知っているか」
「…?」
まだ赤い顔のままなのに目を細めて、ロイは胸ポケットからチケットを取り出す。
「ここを」
指先で示されるままにチケットの一部、書かれた文字を追えば、「奇跡の押し花画 ポワティエ・コレクションを公開」とある。エドワードは首を傾げたまま、答えを求めてロイを見上げた。目が合うと、彼は黒目を細めて丁寧に答える。落ち着かない、と思っていたその態度に、最初ほど緊張しなくなっていることにエドワードは気づいた。慣れた、のだろうか。
「とても押し花とは思えない、絵のような、写真のような…そういう絵画を描いた作家がいたんだ。もう亡くなっているがね。彼の作品はすべて、ポワティエ氏という富豪の財産になったが、そのポワティエ氏も亡くなって…」
「軍に接収された?」
興味津々に割って入ったエドワードに、瞬きした後ロイは笑う。
「惜しいな。ちょっと違う」
「じゃあ、美術館に寄贈?」
「普通に考えればそんなところだな。だが、ちょっと事情が異なるんだよ」
ロイは氷で薄まってしまった、ほとんど金色に透ける酒を名残おしく思いながらグラスを揺らしてリズムを整える。
「ポワティエ氏の遺言でね。氏の娘、もしくはその子供に贈られることになった。他にも莫大な遺産があるというんだが、それを基に財団を設立して、その他美術品も含む、彼が生前蒐集した遺産は全てその財団に管理されながら、今も正式な引取り人を待って、こうして各地で公開されている」
ロイはもう一度チケットの文字を指で示した。しかし、今度は文字よりもその指先、短く切り揃えられた爪にエドワードの意識が向かう。特別きれい好きという風には見えないが(デスクの惨状を見る限り)、爪はきちんと整えられていた。思えば、彼もまた軍人なのだから、銃火器の類を扱うためにそうした部分が整えられているのは当たり前なのかもしれない。
それでもなんだか新鮮で、そのうちに、指の節や形から目が離せなくなる。
「しかし、宝飾品や他の絵画は今までにも何回か公開されているが、押し花画が公開されるのは初めてなんだ。…鋼の? 何かついているか?」
途中まで話して、ロイは、子供がじっと自分の指を凝視していることに気づいた。
「え?」
エドワードはぽかんとした無防備な顔でロイを見上げる。金色の瞳は、灯りを直接に映しこんでいない今夜は、冴えた月光を思わせた。青みを帯びた白金の。
「…え、…あ。うん」
「なんだ?」
カウンターに腕をつけて、少し前のめりになったロイは、横にいるエドワードの顔を覗き込むようにする。エドワードはそれを嫌がるように横を向いた。
「…意外と指長いと思って?」
「疑問系のように聞こえるが…」
「…つ、爪が。きれいだと、思って…」
「爪?」
ロイは自分の手を持ち上げて、表裏にひっくり返しながら眺める。別段、普段とかわりのない自分の手だ。爪も同じ。大きすぎず、小さすぎず。いびつではないが、整えているわけでもない。
「そうかな。初めて言われた」
エドワードは黙って自分の左手を出した。ロイはエドワードの右側に座っていたので、自然、エドワードはロイの方を体ごと向くような体勢になる。
「…? …、」
最初は不思議そうにしていたロイだったが、不貞腐れたような顔で手袋をとったエドワードに手を見せられるとはっと息を飲んで瞬き。しばし困ったような顔でエドワードの手を見ていたが、ええと、とつまったように口を開いた後、小さな声で評した。
「…がたがただな」
エドワードは、黙って頷いた。しかし頷いたまま顔が上に上がってこない。ロイは少し考えた込んだ後、そっと、壊れ物に触れるように、両手でエドワードの片手を包み込む。途端に弾かれたように上げられる顔。
「左手…爪切りを使いにくいのか」
静かに尋ねられ、エドワードは無言でロイを見つめ返す。ややして、こくりと頷いた。それに目を細めた後ゆっくり手を離し、ロイはわざと軽い調子で言った。
「今度、爪が伸びたらおいで。切ってあげるよ」
え、と目を丸くするエドワードに、ロイはからかいのない口調で続ける。
「足も同じだろう。靴を履くとき痛いんじゃないか。職場にも爪きりくらいあるから、いつでも言いなさい」
「…やだよ。ガキじゃあるまいし…」
顎を引いて口を尖らせたら、ロイは笑いながら、伸ばした指でエドワードの頭をつついてきた。何を、と慌てて顔を上げると、楽しそうな様子でグラスを傾けている。次を頼むつもりになったのだろうか。あんなに名残惜しそうな顔をしていたくせに。
「そういうのは、不可抗力、っていうんだ。大人だったら使えばいいんだよ、私なんて、君の便利なように」
「…わけわかんね。つか、つつくな」
「縮む?」
ちらと流し目で聞くのには正直に足を踏んで返してやった。痛いな、と笑うロイはちっとも痛そうではなく、どうしたものかとエドワードは思う。
「…で。その押し花がどうかしたのかよ」
「ん? ああ…、実はね、その画家というのが、錬金術師だったんだよ」
「は?」
エドワードはまた目を丸くした。ロイはその予想通りというか期待通りの反応に満足げに頷く。
「普通の押し花では出しようのない色。だから、奇跡だといわれている。コレクションの中でも門外不出だったそうなんだが、今回特別に公開されることになったと聞いた」
「なんで?」
「特別公開?」
「そう」
さあね、とロイは肩を竦めた。実際考えたこともなかった。
「来賓が特別だからかもしれないが、本当のところはよくわからない。まあしかし…興行に目玉は必要だろう。その程度のことなんじゃないかと思うがね」
「特別な来賓?」
首を捻るエドワードにロイは苦笑し、店内にざっと視線を巡らせた後、それでも用心のためエドワードの耳元に顔を寄せて声を低めた。近寄られたことにこそエドワードは驚いたが、息を飲んだ理由のどれだけがロイに伝わったことか。
「――大総統夫人」
与えられた答えに、エドワードも「え」と固まった。そしてすぐに、同情に満ちた視線を送る。
「…そりゃ、…ご苦労なことで」
「わかるかい」
体を離して、ロイは冗談めかした調子で応じる。
「中尉も大変だな」
「こら。なんで私じゃないんだね」
眉をひそめて尋ねると、エドワードは澄ました様子で「誰に聞いてもそう言う」と歌うように口にした。ロイはわざとらしく肩を竦め、天を仰ぐ。
「ひどいな」
「事実を言ったまでだ」
つん、と言った後ちらりとロイを見たエドワードの視線は、やはり同じくちらりとエドワードを見たロイの視線と空中でかち合う。
「…」
「…」
しばしそうして見詰め合った後、二人は同時に噴出した。
「まあ、そうだな。中尉にも苦労をかける」
「わかってても改められないことってあるんだな」