serenade
「君にだって覚えがあるだろう。食事を抜いて弟に怒られたことがないとは言わせない」
「あれは、」
「あれは?」
「…そりゃ、まあ。…アルには、感謝してる」
最初の勢いは徐々に失われていき、口を尖らせた語尾に至ってはもはや声になっているのかどうか怪しいレベルだった。しかし、ロイは聞き取って小さく笑う。
「君も見に来るか」
「え?」
ロイはチケットを押し出した。エドワードはその、ロイの手の甲をじっと見つめる。よく見れば細かな傷が見て取れた。それに、固くしっかりとしている。そういう部分を見れば、彼が今の地位に昇るまでに重ねてきた苦労や努力が見えてくる。もしかしたら、その悲しみや翳さえも。
「弟の分もいるかな」
じっとロイの手を見ていたエドワードに何を思ったか、ロイは穏やかに続ける。エドワードははっと息を飲んで、それから少し考えて、首を振る。
「鋼の?」
「…大佐と行く」
「え?」
ロイは目を瞠った。実は、その答えを予想していなかったので。
「た、…たまには、いいだろ! アルも、いきたいとこあるって、いってたし…!」
盛大な照れ隠しでわざとらしく笑うエドワードに、ロイは最初瞬きして、それから口を押さえて笑いを噛み殺した。
「な、なんで笑うんだよ」
「笑ってるのは君だろう。…いや、なんというか、その」
「なんだよ」
ロイの細めた目には、間違いなく喜色があって。それを見つけたエドワードは口をつぐんでしまう。
「…秘密だ」
低めた声で言って、彼はチケットをエドワードの掌に落とし込むのだった。
奇跡、とそれを見た人は口々にそう言った。警備の責任者であるロイは、設営の段階から会場内を見る必要があって、つまり、奇跡と称された「それ」を割合に早い段階から見る機会に恵まれていた。
「……」
芸術には必要最低限の教養以上の興味のないロイだったが、それには圧倒された。
壁の半分もあるような大きな絵画。どこかの風景を描いたのであろうそれは、確かに細部をよく見ればひとつひとつが花弁によって描かれているようだった。だが、もしも予備知識がなかったなら気づけたかどうか怪しいものだ。
その色を、筆致を、どう表現したらいいのかロイにはよくわからなかった。そんな色の花があるとも思えなかったし、仮にあったとしてもその鮮明さをどうやって保っているのか、そしてそれをどんな緻密な計算に基づいて配置したならそんな風景になるのか、もはや天文学的ともいいたくなるような完璧さでもってその絵はそこにあった。まるで一歩を踏み出せばそこに入り込めるような、至上の楽園。青、紫、薄紅、いくつもの色を備えた淡い空の下に広がる無限の花園。その中にひとり立つ人の後姿。シルエットだけのそれは、女性のように思えるが、誰を描いたものなのだろう。モデルはいるのだろうか。
――なるほど、これは奇跡だ。ロイもそう思った。
タイトルに目を走らせれば、ファンティーヌ、と添えられていた。どこかで見たような、と思うのだが思い出せない。最近見た気がするのに、と考えながら絵の中央、花園の奥を向いて立つ後姿の人物の名前だろうか、と何となく思う。
そのまま次の絵に視線を向ける。今回公開される絵は三点。ポワティエコレクションにいくつの押し花絵画が含まれるかは明らかにされていないが、これ以上あったら完全に展覧会の主役になってしまうだろうから、三点でもちょうどいいのかもしれない。
「……」
次の絵を視界の中央に捕らえて、ロイはまた息を飲む。今度は人の顔を正面から描いていた。今度こそ絵にしか見えない。しかし、良く見れば今度もまた花弁で描かれている。頬の微妙な色調までが完全に再現されている。まるで今にも瞬きをしそうな程に写実的な人物画だ。
若い女性は、謎めいた表情を浮かべて天上を見上げている。身に纏う服はぼろくずのようにあちこちが破れ、汚れている。しかしその顔は光り輝くように白く美しく、天上からの光の中に浮かび上がるかのようだ。彼女がいる部屋は暗く、壁はひび割れてあらゆるものが朽ち、冷たくかわいた印象だが、ただその光の中、祈るように身を伏せた女性の姿だけがくっきりと明るかった。
聖母子、というタイトルに瞬きをして、ロイはもう一度よく絵を見る。それで気づいた。絵の中の女性は腹部をそっと押さえるようにしている。絵の中に他の人物はいない。つまり、彼女は身重なのだろう。最初の絵よりも大きさとしては小さいが、インパクトの強さは勝るとも劣らなかった。
そして三点目である。これはまた、前のふたつとは全く違った絵画だった。ある意味ではそれは三つの作品の中で一番押し花らしい、または絵画らしい作品だった。幻想的というか、なんというのか。
――絵の中央には一本の木がある。その木には枝がなり、それぞれ異なる色と形の花をつけている。そして、その幹には目を閉じた女の顔があり、そこに注目すれば幹全体が女性的なフォルムを帯びていることがわかる。その木は、つまり女性と一体なのだろう。ドリアードとかそういったものを描いているのだろうか?
タイトルはと見れば、フルール・ド・フルール、すなわち、…
「…花の中の、花」
色とりどりの花の中に眠る木の女。あるいは、女の木。
「…?」
不意に気づいて、二枚目と三枚目を見比べる。完全にとは言い切れないが、同じ顔に思えた。そしてもしも、一枚目の後姿も同じ人物を描いていたとしたら、これらはみな「ファンティーヌ」という女性を描いたものかもしれない。
作家である錬金術師はポワティエ家歴代に仕えた人物だというから、ポワティエ氏に縁のある女性である可能性も高い。まさかこの女性が流布される「ポワティエ氏の正式な遺産相続人」ではあるまいが…途中まで考えて、ロイは首を振った。それが真実であったにせよそうでなかったにせよ、ロイには関係のないことだ。
響きからするとあまりアメストリス風ではなく、どちらかといえばあまり聞かない名前のように思う。だが、最近どこかで聞いたような名前だ。どこだっただろうか、と絵から視線を外しながらロイは考えていた。どうしても解明したいわけではなかったが、魚の小骨のように意識に引っかかる。
それでもそんなことばかりを考えているわけにはいかないので、ロイは、会場内を見回りつつ、警備員の配置、大総統夫人が襲われた際の侵入、脱出の経路を計算していく。最終チェックではないが、何事も起こさせないための準備は気が抜けない。そうはいっても、帰る前にもう一度あの絵と対面したのは、どうしても何かが引っかかっていたせいなのだろう。純粋な興味だってあった。錬金術師が描いたというなら、どこかに何か暗喩か仕掛けがあるのではないかと思ったのだ。しかし、ロイにはそれは見つけられなかった。無意識に見つけたくないと思ったのかもしれないが。
「フルール・ド・フルール…」
小さく呟いた時、彼の脳裏には、金髪の小柄な人物の顔が浮かんでいた。ちょっと意地を張った、はにかんだ顔が。
花の中の花。ロイにとっての。