serenade
馬鹿馬鹿しいと首を振りかけて、自嘲する。いずれにせよどうなるものでもない恋だ。美しい少年への恋を抱いた者は往々にして破滅する。昔の物語では、大体がそうなっているものだ。ロイはそれを知っていた。
「いや…」
彼は小さく声に出していた。もしも彼が彼でなく彼女だったとしても、それでもやはり、秘めるべき思いであることに気づいたからだ。忘れてしまいそうになるときもあるけれど、ロイの中には消えない風景がある。業火の温度はもはやロイを飲み込んで久しい。
その道に他人を連れて行くことなど出来はしない。むしろ過酷さを思えば、少年である方が都合がいいくらいだろう。だが恋は都合でするものではない。思案の外とはよくいったもので。
「……、誰かを大切に思えるような、そんな上等な人間じゃ、ないですよ、私は。お母さん」
ぽつりと彼は呟いていた。あの手紙が誰の手によるものか、ありえなくもトリシャ・エルリック本人のものだったとしてももう構わなかった。あの手紙は多くのことをロイに考えさせ、そして今も悩ませている。もう、差出人について深く考えることはやめていた。ロイを何かに巻き込み、スキャンダルによる失脚を狙う人間の仕業としたらもうとっくに何事か起こしているはずなのだ。それがないということは、つまり、違うのだろう。だがそれでもほっとしたりはしなかった。むしろ、そういう事情の方がよっぽど気が楽だったかもしれないと思うくらいだ。
最後に名残惜しく絵を見つめた後、ロイは今度こそ背中を向けた。仕事はまだ、他にもたくさんあった。
エドワードの滞在は、予定より長引いていた。勿論理由はある。次の予定が立たないというのもあったが、それは今回に限り第二次的なものだった。
最も重要で避けがたい事情は、他にあったのだ。
「…ありがとう…」
消え入りそうな声で言うエドワードの顔色は悪い。青白いといってもいい。今にも倒れそうだ。窓の外からの陽光さえ、その色を明るくすることはなく。
「気にしないで。気がつかないで放っておいたらって思うと、そっちの方がぞっとするもの」
そんなエドワードの背中を押して、さあ横になって、とベッドにやさしく押し込める女性は対照的に穏やかで朗らかである。健康的な愛嬌に満ちたその女性は、セレナーデという小さなレストランの厨房を取り仕切っている。エドワードと年はそんなに変わらないはずだが、妙に落ち着いている。
「…あの、このこと…」
ベッドに押し込まれたまま、もごもごと言いづらそうにしたら、彼女は悪戯っぽく目を細めて笑う。
「内緒なのね?」
「…うん」
「どうしてって、聞いたら困る?」
「…。色々都合が悪いから…それだけ」
「そう?」
彼女は笑いながら、ベッドの端に腰をおろした。
「――秘密は女を美しくする。知ってる?」
「知らない…」
コゼットはにっこり笑って、エドワードの額をそっと撫でた。
「あなたも。秘密があるからかしら? とっても綺麗だわ」
「…え?」
「なんてね。いいわ、わかった」
「ありがと…」
安堵したように笑えば、可哀想なほど青ざめていた顔がほんの少しゆるんだように見えた。
「痛いのは? どう?」
「…ん。薬、効いたみたい。あと、なんか、横になってるから、楽。ありがと」
「少し寝たほうがいいわ。なったときって、なんだかすごく眠いのよね」
コゼットは母親のような仕種でエドワードの額を撫でた。エドワードは、安堵した表情で瞳を閉じる。
内緒、という約束はしたが、それでも最低限、身内には話しておくべきだろう。それにそもそも、エドワードが内緒にしたい相手は一人だけのような気がした。
「ちょっと、いいかしら?」
不調のエドワードが寝入ったのを確かめてから、コゼットはちょいちょい、と弟の方を手招きした。おいそれと聞かせられる話ではないので、エドワードから十分に離れた、だけれども宿の室内で潜めた声で事情を説明する。
「大きな声は出さないでね。どんなに驚いても」
アルフォンスはよくわからないまでも、何となく押されてしまってこくこくと頷いた。よろしい、とばかり頷いたコゼットは、ひそひそ声で説明を始める。
年上の女性に弱いのは、何もエドワードだけではない。アルフォンスもまたその要素からは自由ではなかった。
「お姉さんは、大人の女性の仲間入りをしたの。…これ、なんとなくわかる?」
「…、……!」
きょとん、とした様子だったアルフォンスだが、一泊置いて事実を飲み込むと、黙ったまま両手で口の辺りを押さえた。声をあげないのは、「大きな声を出さないで」というコゼットの命令を守っているのか。…よく訓練された弟、というか。
「内緒にして、ってあの子はいうの。…複雑な事情があるんでしょ?それは、聞かないわ。誰にだって話したくないことのひとつやふたつ、あるものね」
「…そんな、大げさなものじゃないと思いますけど」
ふう、と女性は大げさなくらいに溜息をついた。
「女の子の決意って、そんなに簡単なものじゃないと思うわよ」
「…、…」
「あの子にだって、何か思いつめるようなことがあるんでしょ?」
「それは、」
自分の体の中身が空洞であること――
アルフォンスは息を飲む気持ちで思い起こしていた。
エドワードと自分が人体練成を行ったこと。エドワードが本当は少年ではなく少女であること…。
「それは…」
ね、とコゼットは笑いかける。念を押すような口調でも表情が明るいから穏やかに心に入ってくる。
「でも、誰も知らないんじゃやっぱり困ることもあると思う。だから、あなたは味方になってあげてね」
「そんなの当たり前…っ」
し、と少し声の高くなったアルフォンスにコゼットは人差し指を立てる。慌てて鎧の口のあたりを押さえる少年に、女性は笑った。
「あなたたち、いい姉弟ね」
「…ふたりっきりの、きょうだい、だし」
「そう。うらやましいわ。私、一人っ子だから」
歌うように答えて、彼女は表情を切り替える。
「薬はあんまり飲まない方がいいけど、痛いのを我慢しているのもつらいわ。とにかく暖かくして寝ているのが一番。何かあったら、また呼んで。もしなんだったら、私の部屋に」
「えっ、でも、そこまでは…」
「何もないし、狭いけど。困ったら、声をかけて」
アルフォンスは申し訳なさそうに肩を落とした。
「…どうして、そんなに…」
コゼットは瞬きした後肩をすくめる。
「父がね。お節介なの。一緒にいるうちにうつっちゃったんだわ、きっとね」
「…ありがとうございます」
「気にしないで。趣味みたいなものよ」
ぽん、とアルフォンスの肩を叩いて、彼女は自分の荷物をまとめ始めた。
「じゃあ、よろしくね」
「はい」
帰る前に一度エドワードの額を撫でて、それから、アルフォンスにはひらひらと手を振って彼女は部屋を出ていった。
コゼットがエルリック兄弟の秘密に立会い、それを守っていた頃。東方司令部は市街地に立て篭もるテログループの対応に追われていた。割と日常茶飯事というのが泣ける話だ。
「例のお客さんたちのその後は?」
コーヒー片手にやってきた上司に、ブレダはヘッドセットを外して肩を竦める。
「完全に膠着状態ってとこですね」
「人質も?」