serenade
「まだです」
「そうか…」
やれやれとばかり溜息をついて、コーヒーを啜る。
「…しかし、ポワティエコレクションをよこせ、とはな…随分とまたアカデミックな連中だ」
「大佐、そのコレクションてのはなんなんですか」
部下の質問にロイはもう一度肩を竦めた。
「現在イーストにあるのは、押し花絵画が三点」
「…押し花ぁ…?」
思い切り胡散臭そうな顔をしたブレダに、ロイは苦笑する。
「気持ちはわかるがな。確かに、普通の押し花ではないし、普通の絵でもない。…ただ、人質をとってまで立て篭もって要求するとなると、学術的な理由だけではないんだろうが」
「まあ、そうでしょうねぇ…」
既に冷めている自分のコーヒーを啜ってブレダも頷く。
「それで何をしようっていうんですかねえ」
「……」
ロイはしばし思案げに目を伏せて、おもむろに口を開いた。
「絵画を描いたのは錬金術師だといわれている」
「は?」
「絵にもしも秘密があるとしたら、それを狙っているか…。もしくは、そこに描かれているのがポワティエ氏の遺産相続人だと考えているからか」
「遺産相続人、ですか?」
驚いたように目を瞠るブレダに、ロイは鷹揚に頷いてみせた。
「莫大な財産があるという。だが、氏の娘、もしくはその子供にと託けられた遺産の相続人はまだ現れていない…、だが、それに関係していたとしてだ。なぜこの連中が欲しがるかは結局謎だ」
「まあ、そうですね。その辺はうちの百科事典が資料をどんだけ引っ張ってこられるか、ですかね…」
ロイはそうだなと頷いて、別のことを確認する。
「人質の素性はわかったか?」
「近所に住む七十代の女性とその飼い犬、だそうです」
「…乱暴に突入したらショック死しそうだな」
下手に外部の人間に聞かれたら暴言だとでも詰られそうなことを口にして、ロイは地図が広げられたテーブルに寄りかかる。
「交渉は誰が?」
「中尉が」
ロイは目を瞠り、それから溜息。
「彼女は発砲しないでいられるだろうか」
「中尉は理性の人じゃないですか」
「それ以上に正義の人だろう。…平和的に解決したいものだがな」
心からそう呟いて、ロイは頭をかいた。部下を信頼していないわけではない。信頼なら掃いて捨てるほどもある。だがしかし、彼女の性格や性質もロイはよく理解していた。だからこその心配であり、気苦労である。
そして果たして、現場の中尉がどうであったかといえば、だ。
「………中尉、落ち着いてくださいね…」
部下に指示を出しつつ、ちらりと上司を窺ったハボックは小声で懇願する。薄い色の瞳が過たず射抜くようにハボックを振り向いた。大丈夫、怒ってはいるが、冷静だ。少尉はひそかにほっとした。
そんなことを部下に思われているとどこまで察しているか謎だが、中尉は前を見た。立て篭もり犯は今のところ大人しいものだ。中から悲鳴も聞こえない。だが、静かだからと言って人質の安否が必ずしも確保されているとは限らない。
「要求について、司令部は?」
「交渉中とのことです。その、要求品の管理者と」
「………」
ホークアイは目を伏せて暫し考え込む。
「人質と交換、しかないわよね…」
「でしょうね」
ハボックはグローブを黙って差し出した。冷え込みが強くなってきている。中尉は瞬きした後それを黙って受け取り、そっと嵌める。機械油のにおいが微かに鼻をついた。しかし、絹の手袋よりはきっと自分にしっくりきている。そう考えると何か昂揚する気分が確かなった。ほとんど無意識のようにぼそりと呟いたのはそのせいか。
「……うちころしてしまいたいわ…」
「冗談に聞こえないからやめてください」
げんなりした口調で宥めたハボックに、あら、と中尉は心外そうに瞬きをして。
「本当にそんなことするわけないじゃない」
会話が聞こえていた部下は寒さばかりでなく震え上がりそうだった。中尉が否定した一瞬だけはほっとしたものの。
「片づけるのが面倒よ」
ひい、と部下が内心で悲鳴を上げるのを過不足なく読み取りながら、ハボックは溜息をついた。中尉のストレス発散は、やはり大佐に任せるべきだろう。部下にはちょっと、荷が重い。
コゼットが帰ってしばらくは、エドワードは目を覚まさなかった。ぐっすり寝ているのを見るともなし見ていて、アルフォンスはしみじみと、ああ、兄ではないんだな、とそんなことを思った。自分がもしも体を失わなければ、今頃きっと、腕の筋肉や何かが随分違ってきていたのではないだろうか。
もっとも、そうなっていたならエドワードだってもう少し違っていただろうけれど。少なくとも、国家錬金術師になっていたかどうかは疑問が残る。そしてそうなっていたらロイとも出会っておらず…、そこまで考えて、アルフォンスは開けたままだった窓を閉めた。エドワードの髪がふわりと揺れたからだ。今日の風が寒いか暖かいか、アルフォンスにはわからないから。
エドワードは、あの大人に惹かれているのではないかと思うときがある。意識的なものではないのだろう。子供が気になっている相手にわざと意地悪をするような、そういう他愛のない。
卵が先か鶏が先か。結局、ふたりについて考えると結論はそれに行き着いてしまう。あんなことがなければもっと素直になれもしただろうけれど、そもそもあんなことがなければ出会いもしなかった。つまり、そういうこと。世の中の事象というのは皆繋がっていて、どれかひとつを切り取ることは出来ない。
「…起きたら何か買ってきてあげないと」
頭を振って感傷を追い出す。物思いに耽る暇があったら、もっと建設的なことを考えていたほうがいい。
人質がいるとはいえ、こう言ってはなんだが一般市民であって、軍高官に連なるわけでもない。一応犯人の要求については伝えたものの、まさかポワティエ・コレクションの管理人がわざわざ東方司令部を訪れるとはロイはあまり思っていなかった。その上、予想外もいいところの依頼を受けることになるとも。
「…はい?」
思わず聞き返していた。しかし相手は笑いもせず、つまりは冗談ではないのだと理解せざるを得なかった。
管理人――財団の事務局長はこう言ったのだ。
――絵画と同じものを、練成して頂きたい。
よりにもよってまさか、秩序を守るべき軍人に偽造を依頼するのだから神経が普通ではない。しかし、今は平時ではない。凶悪犯への身代金を偽造した札束で用意したとして、それは通常言われる意味での偽造となりうるだろうか。
「国家錬金術師である大佐でしたら、あの絵画の基礎となる錬金術もお分かりになるのではないかと。我が財団は、あの絵画を失うわけには行きません。しかし、そのために無辜の市民が犠牲になるのは忍びない。いかがでしょうか、大佐」
「…」
ロイは微かに眉をひそめた。何かがおかしい。いや、何かが気に入らない。状況がロイにあの絵画を偽造させようとしている。もっと非道な行いはいくらでもある。それを考えたら、たった三枚の絵画を、錬金術によって描かれたそれを偽造するのは十分に方便として、情状酌量の余地があるものではないか。――それが気に入らない。何か、癇に障るものがあるのだ。
しかし、結局は頷くしかない。少なくとも今は。