serenade
「…わかりました。では、準備します。それから、もし絵画に関する資料がありましたらそちらもお渡し願いたい」
「承知いたしました」
淡々と頷く管理人は年齢不詳の男で、表情もほとんど動かない。資産管理が彼が属する団体の主な機能であろうから、社交性を求めてはいけないのだろうが…。
ただ、緑を帯びた褐色の瞳だけが印象的な男だった。その視線の強さが。
「では、整い次第お届けいたします」
来客は慌てることのない様子で退室する。ロイも立ち上がりそれを見送る格好になった。しかし、戸口で男は立ち止まる。
「そういえば、大佐」
「なんでしょうか」
「人を探していただくことは可能でしょうか」
「…。状況によります。事件性の高いものでしたら、軍で探すことになるでしょうが…」
「ユーフラジーという女性です」
話を聞く気がないのか、どうしても頷けということなのか。これがただの相手なら一喝してもいいところだが、残念ながら人質となった老婆と違い、この団体は軍上層部とかなり密接な繋がりがある。いちいち生真面目に対応しても疲れるだけだ。
「十二年前に誘拐されました」
「…誘拐?」
「生きていれば二十歳になります。…ポワティエ・コレクションの正式な相続人です」
「…!」
さすがに息を飲む。だが、すぐに我に返る。
「失礼ですが、…イーストシティ、もしくは東方司令部の管轄にその女性がいる可能性は?」
「高いとはいえません。しかし、セントラルにはいなかった。サウス、ウェスト、総て外れでした。勿論、捜索は続けていますが。…ただ、イーストは長らく落ち着いていませんでしたから、イーストでは捜索されていないのです」
落ち着かなかった理由など聞くまでもない。ロイだって関係のあることだ。そして、その混乱に乗じてやってきた移民も多かろうということをこの男は言いたいらしい。ない話ではないが。
「その女性について、名前以外にわかることは何か?」
名前だけで人を探すなど無茶も極まれりだ。探す探さないは別として尋ねたら、男は少し考え込むようにして、それから答えた。
「母親の名前はファンティーヌ。髪の色は栗色、瞳の色はヘイゼル。恐らくは男と二人暮らし…父親か、祖父か…兄か。二人だとしたら年が離れているはずなので、夫婦だったら目立つかと」
またファンティーヌだ。ということはやはりあの絵画の女性が正式な相続人で、その娘がユーフラジー、生存する相続人、ということなのだろう。
「…あまり期待されると困りますが。手配はかけておきましょう」
「ありがとうございます」
男はそれだけ告げると今度こそ部屋を出て行った。
立て篭もり犯への呼びかけは継続して行われており、幾度か食料が届けられる場面も見られた。人質の無事は確認されているが、予断は許されない状況が続いている。
「…人質を交換してはどうかしら」
顎を押さえた中尉がそう言い出したとき、ハボックは正直に言えば悲鳴を上げそうになった。何を言い出すのだ、この女性は。
「…冗談でもやめてください」
搾り出すように訴えたら、あら、と瞬きと共に小さな笑い。魅力的だが、なんだか背中が寒くなる。この先のことを予感して。
「冗談でなければいいの?」
「もっとだめです」
そう、と中尉は前を見る。
「でも、人質が必要ならそれは私でも構わないと思わない?」
「思いません。大体中尉が人質になったら誰がこの場を指揮するんです」
「あなたがいるじゃない」
至極当然、とばかりに言われた言葉に、咄嗟にハボックも詰まってしまった。なんだそれは。
「…ですから、そういう冗談はやめてください」
重々しい溜息と共に再度訴える。まったく、大佐と比べたらまともなように見えるけれど、中尉だって十分まともではない。
「司令部から連絡は?」
「絵の持ち主と交渉中とのことです」
「…渡すの?」
少し驚いたような表情に、中尉の軍上層部への信頼のなさが見え隠れしているなんて言ったら言い過ぎだろうか。ハボックは何となくそう思いながら続ける。
「さあ。そうなんじゃないですか。…でも、人が死なないなら、自分はその方がいいと思います」
そっと付け加えて包囲したその建物を見る。小難しい政治理論などよりも、現場で確実に任務を遂行することの方がハボックには重要なのだ。無論、上司達がそれに意識を向けていないというつもりはないが。
「…それはそうね」
中尉も少し毒気を抜かれたような声でそう応じる。
「勿論、そう思うわ。私も」
すぐに届けられた資料と現物の絵画に、ロイはますますもって気に入らない感じが強まるのを覚えた。なんだろう、この準備の良さは。まるで初めから予定していたようではないか。
「…ばかばかしい」
しかしそんなわけはない。それでは、立て篭もり事件がロイにこの練成陣を解いて同じものを作らせるために起こされたことになってしまう。それはいくらなんでもないだろう。
壁の時計を見ながら、ロイは覚悟を決めるしかない。
不意に、エドワードのことを思い出した。エドワードならどうするだろうかと思ったというのもあるし、一人で解析するより二人でやった方が早いし、エドワードとだったら楽しいだろうなと思ったというのもある。
「…もしかしたらやりたがったかもしれないな」
小さく呟いて、ロイは思考を切り替えた。そうはいっても、あまり褒められた類のことではない。方便とはいえ、だ。それを考えれば、やはりこれは一人でやった方がいい。エドワードにはもう重過ぎるほどに重い枷があるのだから、小さなものでも枷を増やしたくはない。
まずは資料をめくり、絵画を観察する。時間はあまりない。誰も褒めてはくれないだろうが、それでもやるしかない。
絵を絵として見ている間は何もわからない。といって、闇雲に暗喩を探すのも危険だ。こういうのは発想が柔軟な若い脳みその方がむいているんじゃないか、と肩を叩きながら、それでも、そんな時ではないのだが、久方ぶりに純粋に学術的に錬金術に触れ、ロイの脳は随分活発に動いていた。ロイもまた錬金術師なのである。軍人である前に。
「……」
資料の余白にいくつかの単語を走り書き、別の資料の裏面に記号を書き入れる。子供の落書きにしか見えないレベルだが、誰が見るわけでもないので構わない。
いくつかのパターンで分析と分類を試みてみた。色や形状、花の名前など。結局、情報量が多い「色」の要素に絞ることにした。
例えば同じ緑でもいくつかの種類と色名、構成比、分析値が存在する。そういった細々した情報は、生きた辞典を呼んだ。時間があれば自分で組み立てたい所だったが、何しろ時間が惜しい。
ファルマンもまた自分の知識が最大限活かせるとあって、糸目なのは変わらないが緊張した面持ちだ。