serenade
店主がぽつりと呟く。ロイは黙って彼を見た。誰だかのセレナーデ。有名な音楽家の作なのだろうけれど、友人が何と言っていたかもう思い出せない。
「…。ファンティーヌは…そのヴァイオリンの持ち主と駆け落ちしてきたんだと聞いています」
「……」
「でも、その男は事故で亡くなって…、娘を預けて働いていたけれど、自分も病気になって身を持ち崩して亡くなりました。その頃、私は小さな会社をやっていましてね。それなりに暮していました。ファンティーヌは私の会社で働いていて…それで彼女のことを知ったのです」
よくある話――とくくってしまっていいのかどうかわからず、ロイは淡々としたその告白を聞いていた。
「…成り行きで、といいましょうか。私はその娘を育てることを彼女に約束しました。娘は、預けられた家で随分とつらく当たられていましたが、素直で明るい子でね。すぐに懐いてくれました」
「…相続人だということは…」
控えめに問えば、店主は首を振った。
「知りません。私も知らなかったし、ファンティーヌも知らなかったでしょう。知っていたら…、いや。とにかく、知りませんでした」
「…これからも、知らせずに?」
店主はそこで、迷った顔を見せる。普段よりいくつも年を取ったように見えた。
「…ずるずると…教えずにきたことがたくさんあります。いつか話さなければと思いながら…」
力なくうなだれた店主の語尾に、お湯が沸く音が重なる。ロイは一度視線をヴァイオリンに落とした後、ゆっくりと口を開いた。
「コーヒーと、それから」
「…?」
「このヴァイオリンを、譲ってくれませんか」
「…? それを、ですか…」
ドリッパーを用意しながら問い返す店主に、ロイは頷いた。
「管理人がまともであれば、相続人の情報を伝えて話は終わるのですが」
「……」
「私に任せてはもらえないだろうか。…あなたの苦悩の幾分のひとつもわからない若造だが」
真摯に告げれば、暫しの沈黙の後、店主が強張った頬を緩めた。
「あなたこそ、お年よりも随分と重いものを背負っておられるように見える。…大佐にお任せいたします。いかようにしてくださっても、恨んだりはしません」
コーヒーの芳醇な香りが、張り詰めた神経を少し緩めてくれる。ロイはわずかに目を細めて、ありがとうと微笑を浮かべた。
夜、一度起きたときは空腹より鈍痛を感じたのだが、一瞬だけ緩んだのか薬のせいなのか、次に目覚めた時はそんなに痛みを感じなかった。では空腹か、と一瞬考えたが、そうではなかった。
「…音…?」
意識が覚醒していけば、確かに音がする。あたりはひどく寒く、薄青い。この様子ではまだ日は昇っていないのだろう。多少明るくはなっているものの。
「…?」
何となく興味を惹かれて窓辺によれば、窓をあけたのはエドワード一人。誰も目を覚ましていないのか、気にもしていないのか。騒音というような音ではないからかもしれない。
「…!」
音源を捜すように見回して、息を飲んだ。彼は、エドワードと目が合うと弓を下ろす。
「やあ」
眉と瞳を和ませる男を、じっと見つめてしまった。夜明け前の空気の中、コートを着ただけの男は特に寒そうな様子もなく立っている。ヴァイオリンを携えて。本当に弾けたんだ、と妙に感心してしまった時、小さなくしゃみが出た。慌ててかぶってきた毛布できつく体を抱きしめたら、微かに笑われる。
「すまないね」
「…なに、してんの…」
ひそめた声で問いかける。誰の邪魔も入らない今、小さな声はしっかりとロイに拾われる。
「セレナーデを」
「え…?」
眉をひそめれば、謎めいた微笑。吸い込まれるように見入ってしまう。息もひそやかに。
「知っているか。セレナーデというのは、男が恋人の窓の下で歌う曲のことを言うんだそうだぞ」
「……、はっ?」
不意打ちに耳が赤くなる。恋人? 誰が?
「実は、このヴァイオリンはわけあって廃棄しなければならなくなってね」
「えっ…なんで、弾けるのに」
唐突に変わった話題になんだかほっとする。不穏な単語を起きぬけに投げられるのは心臓に悪い。
「色々とね。だが、最後に一曲弾いておきたいと思って」
「…」
それとセレナーデをエドワードに聞かせるのとはどうやって繋がるのだろう。考えたくないような気がする。
「しかし、私に弾けるのはこれだけで、そして、考えてみたらこのヴァイオリン自体が恋人に男が愛を捧げたものだろう? 少し、悩んでしまってね」
「…なんで?」
「聴衆がひとりもいない弾きおさめではかわいそうだ。そう思わないか?」
よくわからなくてエドワードは眉をひそめる。毛布の上から胸を押さえたのは無意識。
「セレナーデを弾くならここしかないし、聞かせる相手も一人しか思いつかなかった。…それだけだ。起こしてしまってすまなかった」
彼は晴れ晴れした顔で笑いかけてきた。そして、何事もなかったかのように背中を向ける。人気のない朝の街を、しっかりとした足取りで歩いていく。
「大佐…っ」
なぜだか引き止めなければいけないような気がして、呼んでいた。しかし振り返られて焦る。言葉なんか何も用意がない。
「…そ、その、あの…」
「答えようとしてくれなくて、いい」
静かな言葉に、エドワードは息を震わせた。ロイの目は穏和だった。言葉は突き放すようなものでも、彼の態度には拒絶は何もなかった。あるがままに総てを受け入れる寛容さで彼は佇んでいた。
「私は望まない。ただ、それでも、君に聞いて欲しいと思った。そんな技量もないが」
窓枠をぐっと掴む。そうしなければ倒れてしまいそうだったのだ。
「まだ早い。起こしておいてなんだが、もう少し寝なさい。冷やさないように」
微笑だけで頭を撫でられているような気持ちになった。それくらい優しい表情だったのだ。ロイが本当は優しいことなんてとっくに知っていたけれど、それでもあらためてそう思った。
もう振り返らないロイの背中を見ながら、ずるずると毛布ごと沈んでいく。毛布ごと丸まって、段々痛くなってきた腹を抱えるようにして唇をかみ締める。
もう一度、いや、もっと、何回でも聞かせて欲しいといいたかった。答えを望んで欲しい。それはわがままなんだろうか。ロイを困らせるのだろうか。
エドワードの所を離れて、ロイは停めていた車に乗り込んだ。らしくないことをしてしまったと思う。だが反面、妙に晴れ晴れした気持ちになっていたのも確かだ。惹かれている気持ちを、ごまかすことなんて結局は出来ない。
「……」
後部座席には練成した絵画が、そして助手席にはヴァイオリンが置かれている。ロイはアクセルを踏んだ。部下がストレスに耐えかねて発砲する前に助けてやらなければいけないし。珍しく殊勝に考えたわけだが、正直に言っても信じてもらえるかどうかは謎である。
仮眠から執務室に戻ったファルマンは、ロイの走り書きに一番最初に気づいた。そして絶句した。
「…た、大佐、いや中尉!」
泡を食って通信機へ向かう。
上司からの指令は実に簡潔なものだった。謎は解けた、人質の解放に向かう、という。しかしファルマンにしてみたらロイの行動の方が謎だ。