serenade
ハボック、と彼は声もなく呼ぶ。ハボックはそれだけで理解して、部下に合図を送る。部下もまた音もなく配置につく。突入の準備だ。
「本物かどうか、確かめてみたいとは思わないか?」
挑発にどこまで乗ってくるか。よしんば、絵を渡してしまっても構わないのだが。だがしかし、殺してしまうわけにはいかない。背景を確かめなければ、ロイもまた利用されてしまう。それは我慢がならない。部下を危険にさらすのも論外だ。
「せめて、その窓をあけてみないか。私ももう少しそちらに行こう」
言いながらロイは一歩、二歩とつめる。慌てたような気配。ハボックも部下も息を飲んでタイミングを計っている。犯人グループの人数がさほど多くないのは既に判明しているのだ。
「さあ」
ゆっくりとかけた声に、窓が開いた。主犯なのだろうか、とにかくずっと喋っていた男が窓をあけた。ロイは笑いかける。笑いかけて、そして。
「やっと会えたか」
親しみの篭った表情を浮かべ、目を細めたのだった。
…顔を見せたのはライフルを構えた、二十代前半くらいの青年である。やはり若い。風貌やイントネーションからしてアメストリスの人間であることは間違いない。しかし、テロリストによく見られるような荒んだ雰囲気がない。どちらかといえば学生のような印象だ。
「…コレクションは」
押し殺した声。ロイは内心でいくつもの可能性、その分岐を潰していく。彼が真実それを求めている可能性、誰かによって仕組まれた策に乗って動いている可能性、対象はなんでもよく事件を起こしたいだけという可能性。少なくとも最後の線はない、と判断する。
「人質は? 無事なんだろうね?」
「…軍人が民間人をそんなに心配してるのか?」
捻りのない嫌味だと思ったが、翻って考えれば彼は純粋な青年なのだろう。そんな風に思う。
「人を心配しても反感を買うとは、厄介な商売についたものだな、我ながら」
傷ついたように、それでもおどけて言えば、青年はじっとロイを見つめながら黙り込む。
「君に納得できるように言った方がよければ、市民の安全がどれだけ守られているかの指数は我々の防衛能力の高さとイコールだよ」
わざと皮肉っぽく言えば、青年の顔が嫌そうに歪んだ。じりじりと突入のために重心を入れ替えている部下を背後に感じながら、それでもロイは悠長に言葉を重ねる。
「我々は君たちの要求にこたえた。君たちはさて、どうするのかな」
「まだコレクションを受け取っていない。軍人の言うことなんか信じられるか」
吐き捨てるような言い方は本心だろう。
軍をよく思わない人間は大体二つに分けられる。実際に過去に軍により不愉快、あるいは理不尽な行いを受けたか、机上の理想を追うあまりに軍や軍人を見下すか、大体そのいずれかだ。何となく、彼は前者のような気がした。
ロイは抱えていたヴァイオリンを示し、背後の部下に持たせていた絵の包みを開けさせる。青年が目を瞠った。
「取りに来たまえ」
「そちらがもってこい」
ふう、とロイは溜息をつく。
「世話の焼けることだ」
視線で示せば部下が絵を持っていく。青年の後ろからも、仲間と思しき男が受け取りのために出てくる。
――今ここで取り押さえるか。それとも泳がせるか。取り押さえた方が面倒がないに決まっている…
ロイの逡巡は長い間のことではなかった。
犯人側が絵を受け取ると同時に、彼らが立て篭もっている家屋の死角から回りこんだハボックの部下が音もなく突入し、人質を確保する。映画のように事態が進展し、怒号と悲鳴、煙が上がる中で、ロイの視線は確かに絵を抱えて逃走する人影を捉えた。
「ハボック!」
だが、彼は、あえてそれを追おうとしたハボックを制した。部下も一瞬は目を瞠ったものの、上司の視線一つで彼の意図を理解する。このあたりの呼吸はさすがだ。
そしてこの一瞬のやりとりで、主犯は絵を持って現場から逃走する。これでいい、とロイは頷く。
あたりは既に収束の気配だ。ざっと見たところ、人質も無事だし部下にも目立った怪我はない。取り押さえられた犯人たちはあちこち痣を作っているようだが。…素人の集団か、と結論付ける。これもまた事件というか、今どこかで動いていて、ロイを巻き込もうとしている流れを読み解くひとつの鍵になるはずだ。
「中尉」
部下にあれこれと指示していた女性は、ロイの呼びかけに答えて小走りにやってくる。まだ背中はぴんと伸びたままで、芯の強さというか、強情さをうかがわせる。
「主犯を追う。後は任せる」
「…大佐がですか」
案の定難色を示された。
「ああ。ハボック少尉を連れて行く」
今度はハボックも軽口を叩かない。こういうところが、男というのはまた厄介な生き物だ、と中尉は内心溜息をつく。じゃれつく場とそうでない場の切り替えを理屈ではなく空気で行ってしまえる。
「…少尉。頼みます」
「アイ・マム」
ぴしっと敬礼した後、彼はいくつか部下に指示を残して、もう後ろを見もしないロイを追いかける。中尉は今度こそ声に出して溜息をついた。
素人という見立ての通り、逃げる青年は尾行に全く気づいていなかった。そして尾行している方は、青年が向かった先に眉をひそめる。彼は市街地へ向かっていた。
あともう少ししたら早出の通行人が街に現れるのだろうが、今のところ誰ともすれ違っていない。まだ、街は眠りの中にあるようだ。
青年の視線が、ひとつの店を、その看板を捉える。
それに気づいたとき、ロイはまた可能性や確率をいくつか塗りつぶした。
「……」
青年はそのドアの前で立ち止まる。視線で何度も看板とドアとを見比べるのは、彼が迷っているからに違いない。
それまで消していた足音を殊更に大きく響かせ、ロイはゆっくりと青年に近づいた。ドアノブに触れようとしていた青年が、肩をびくりと跳ねさせて振り返る。大きく見開かれた目。やはり素人だ。
「今度はその店の従業員を人質にする気かね?」
至近距離、しかも明るくなってから見れば、その顔はただ素人というのとはまた別の情報を持っている。何のことはない、見た顔と似ているという話だが。
「モーリス。君のお父さんはこのことをご存知なのかな?」
「…っ!」
息を飲む青年を、ロイの脇から進み出たハボックが取り押さえる。もはや彼には抵抗の意思が感じられない。
「……」
これで司令部に戻れば、と思ったとき。店内で物音がした。
「ハボック」
自分はドアの前に回りこみ、開けられるのを留めながら部下に声をかける。押さえ込んだ青年を放すなという意味である。そんなことを全部言わなければわからないハボックでもない。彼はすぐに圧してその通り動く。
「…っ!」
ドアの隙間から上がったのは女性の声。コゼットだ。
「静かに、ドアを閉めて」
「大佐…?」
息を飲むコゼットは、しかしすぐに言われた通りドアを閉める。が、その寸前に押さえ込まれた青年が声をあげた。
「アルーエット! ぼくだ!」
コゼットでもユーフラジーでもない名前に、ロイは眉をひそめる。
「きたよ、ぼくだ、モーリスだ!」
必死に訴える声は切実そのもので、ドアを背中で押さえながらロイは困惑するしかない。まだ揃わないピースがある。
「…モーリス…?」