serenade
「もっと前に帰ってくれてもいいんだが…なあ、ハボック。そう思うだろう」
「へっ? ああ、そうですねえ」
中尉は女性なんですから、とは言わずにとりあえず頷いた部下に、そうだろう、とロイも頷いて。
「残りの資料はハボックとブレダがまとめてくれるらしい。ということで、君も帰りたまえ。ブラックハヤテが心配しているぞ」
え、とハボックは固まった。今頃ブレダはくしゃみでもしているのではないだろうか。
しかし、な、と笑いかけるロイにも、本当に? と疑いの視線を向けるホークアイにも、勘弁してくださいとはいえない。ハボックは口元が引きつらないように気をつけながら、「ええ、もちろん…」と力のない声で答える。
「それに、明後日から例の警備も入る。中尉には休みをとっておいてもらいたいな」
ロイの声が不意に真面目なものになる。なるほど、確かにそうだ。だが、ハボックだって結局条件は同じなのだが。いや、現場レベルではむしろハボックの方が忙しいかもしれない。だがそんなこと、男として言えないではないか。若干上司の言い回しが恨めしい。
「…わかりました。では、もう少しまとめたら帰らせていただきます」
恐らくはそんなハボックの懊悩さえ読んだのだろうけれど。ホークアイ中尉は、少しだけ優しい顔で笑ってそう頷いたのだった。
司令部には勿論仮眠室が存在するが、ロイがもぐりこんだのは医務室のベッドだった。そこが一番執務室から近いのと、医師が常駐しているからだ。仮眠室は性質上司令部内の他部署から隔離された場所にあるが、医務室はそうではない。…ロイが逃走したり休憩したりしないように、という中尉の意図と遠くへ歩くのが億劫なロイの気分が重なったということである。こういうのも利害の一致というのだろうか。
さすがに横になればすぐに体の端々に倦怠感が訪れた。だが、妙に頭が冴えている。久しぶりに解析なんかしたせいだろう。それでも目を閉じればじんわりとする瞼に、疲労の蓄積を認めざるを得ない。元々、最近悩ましいことがあっただけに十分に休息を取っているとは言い難かった。
「……、」
腕で目を覆う。外が明るいから、目を閉じただけでは真っ暗にならないのだ。それに、適度な重みが心地よかった。
あの子を誘って、というコゼットの台詞が耳に蘇る。つられて、エドワードのことを考える。驚いていた。けれど、嫌そうではなかった。毛布を抱き寄せる体が妙に小さく、心細そうに見えて、…抱きしめたかったな、と思う。そして、それに、と続けて考える。エドワードは少年ではないのかもしれない、と不意に。願望ではない。ただ、…あんな風な顔は、少年はあまりしないものだ。そしてそう考えると、そういえば、と腑に落ちることが多くあって、ああ、本当にそうなのかもしれないな、とぼんやり考える。
だけれども、今となってはもはやそれさえどうでもいい。
「…『私の愛するあの子を愛するあなたへ』…か」
小さく呟く。
確かに、と。
あの震える肩を抱きしめて、背中を撫でてやりたかった。つまり、そういうことだ。
『私は望まない』
自分の言葉を思い出し、ひそかに自嘲した。望まないなんて大嘘だ。どんなにか抱きしめたいか。今、この瞬間でさえ。
ロイが仮眠から戻ると、ホークアイは帰宅した後だった。珍しく素直だ、と思ったけれど、執務室に積み上げられた書類の山(今回の件に関係のないものも含まれている)を見て、それどころではなくなった。
うんざりした気持ちでとりあえずそれらを視界から追いやることにして、というかむしろ扉を閉めてなかったことにして、ロイはまずモーリスを取り調べたはずのブレダのところに向かった。彼も仮眠を取っているかもしれないが、…所狭しと書類を並べられたデスクに向かうよりましだ。最終的にそこに行き着くとしても、今は忘れていたい。一瞬だけでも。…悪あがきなのは自覚している。
そして訪れた先にはやはりブレダは不在だったが、取調べ資料は手に入れることが出来た。その場で机に寄りかかりながら目を通して、それから諦めたように執務室へ戻る。
執務室へ戻ってロイが最初にしたのは、使わなかった模造品を並べることだった。それから、結局まだ廃棄していないヴァイオリンを取り出す。
「…」
模造品を作って、というかオリジナルを解析して練成陣を描いてみて、わかったことがいくつかあった。
練成陣にはフェイクの要素が盛り込まれていて、それらを暗号として組み替えることで練成陣とは別のメッセージが浮かび上がった。練成陣を描いた人間から「ファンティーヌ」への愛情を綴ったもの。だがそれは、恋愛ではない。
ロイは眉間を押さえて椅子に沈んだ。
ポワティエという金持ちがいた。彼は多くの宝飾品、多くの美術品を蒐集した。そして、その対象は物だけに留まらなかった。法にふれるケースもあっただろう。資料はないに等しい。けれど、それでも人の口に戸は立てらない。ファルマンが探し当てた古い資料に、人身売買にポワティエが関係していた証拠があった。結局立件されないままに終わっていたが担当者がその後失職していたことがわかり、何らかの圧力が働いたと見るのが自然だった。
さらわれた娘、駆け落ちした女、遺産の相続人とその管理者。娘は助けられたのだといい、管理者はさらわれたのだという。
『私の愛しい娘、ファンティーヌ。君がいつかこの檻から自由になることを祈っている』
最近同じような内容の手紙をロイは読んだ。私の愛するあの子を愛するあなたへ、と綴られた、母親の手紙だ。絵を描いた錬金術師も、もしかしたら同じように誰かに託したかったのかもしれない。祈りや願いを。練成陣のフェイクの暗号を思い、ロイは息を吐く。
「……」
それから彼は一度深く目を閉じて、それから開く。そしてあとは静かな表情で、電話を引き寄せる。名刺は机に出したままにしてあった。
ダイヤルを回しながらロイは考える。つまり、こういうことだろう。錬金術師の娘、ファンティーヌもまたポワティエの「コレクション」だった。幸運にも彼女はその檻から逃げ出し、しかし何らかの事情で逃げた娘の娘は檻に戻された。その時に呼ばれていた名前がアルーエットであり、知り合ったのがモーリスなのだろうか。
「…こんにちは。ミスター・ブランシェット」
額を押さえながら、ロイは声を発した。練成陣を解いてしまった今となっては、なぜ彼がロイにあれを解かせたかったのかもわかる。どこから彼のシナリオだったのかまでは不明だが。
「直接お話したいことがあります。ご足労願えませんか」
相手は電話の向こうで少し息を飲んだようだったが、冷静な調子で了承を返した。
ロイは受話器を置いて、椅子に思い切り背中を預けて天井を見る。今夜までに解決したら、エドワードを誘って食事に行こう。そう思った。そのためにはもう少し頑張らないといけない。
ブランシェットは時を置かずやってきた。
ロイは、彼に椅子を勧めながら預かった絵の包みをテーブルに運ぶ。
「ご協力ありがとうございました。おかげで、人質は無事保護できました」
ブランシェットは軽く頭を下げる。
「ところで、残念なお知らせがあります」
「…なんでしょう」
「ご子息を逮捕しました」