serenade
ブランシェットは軽く目を瞠ったが、反応としてはそれだけだった。息を飲むことさえなかった。
「それは、ご迷惑をおかけいたしました」
「…私は、ブランシェットさん。あなたが何か策でも巡らせているのかと思ってしまいました」
目を見据えて挑発しても無駄だった。ブランシェットは無礼を咎めることさえない。
「お借りした絵画から、複製を作りました。何しろ、美術品の構築は普通の物質の練成と同じわけにはいかない。解析にも苦労しました」
ブランシェットが微かに息を飲んだ。練成陣を解いてことに、ここへ来て一番驚いている。本当に息子のことはどうでもいいのかもしれない。いや。それよりも絵画の方が大事だということか。
「あなたが私にあれを解かせたかったのは、…遺産のためですか。それとも、彼女を檻から自由にするためですか」
突き詰めて言えば、何度も名前だけは登場するファンティーヌの方が大事なのか。
ブランシェットが大きく溜息をついた。何の感情も読めなかった顔は動揺し、随分と年を取ったように見えた。
「…どこまで。ご存知なのですか」
押し殺したような声に、ロイは溜息をつく。この男がどちら側なのか、この声でわかるような気がする。つまりは、ポワティエと同じかそうでないのか、だ。
「何も。ただ、練成陣を解いてわかったことがいくつかある。それだけです」
「…大佐、わたしは…」
ポワティエは顔を上げた。許しを得たがっている罪人の顔をしていた。ロイは目を細める。
「…もう、彼女を自由にしてやりたい。そして…せめて、ユーフラジーには幸せになってほしい」
男は両手を固く握り締め、口に当てた。ロイは黙って話の続きを待つ。…ブランシェットが訥々と話し始めたのは、たっぷり二分も経ったくらいのことだった。
――ポワティエというのは、尋常でない執着を「美しいもの」に対して抱く男だったのだという。とはいえ、だからといって異常な行動に走るとか、猟奇的な事件を起こすということはなかったということだが。
彼は、ある日一人の錬金術師の描いた絵画に出会った。趣味で描かれた押し花絵画は奇跡のように美しいものだった。一目で魅せられた男は、早速錬金術師を雇おうと考える。国家錬金術師ともなれば話は別だが、一般に錬金術師として高給を得られるケースは限られる。どうやら、作家である錬金術師もそうだったらしい。
そこで終われば芸術家とパトロンで話は簡単なのだが、作家には一人の美しい娘がいた。ポワティエは彼女にも大いに惹き付けられた。それこそがファンティーヌである。
ポワティエはファンティーヌを自分の娘のように可愛がった。だがそれは人形を愛玩するような類のそれであり、彼女が自分の意思をもつことをひどく嫌った。それでも父が援助を受けているということがあり、ファンティーヌも逆らわないでいたようだが、限度というものがある。年頃になったファンティーヌに恋人が出来たとき、ポワティエの執着はとうとう常軌を逸してしまった…。
「…口に出すのもいやな話です。とにかく、あの人はそれですっかり壊れてしまった。ファンティーヌを閉じ込めて、…随分辛い目にも遭わせた。私たちは誰もそれを止められなかった。だから、とうとう逃げ出した彼女を、私たちは誰も、本気で探そうと思わなかったのです」
苦渋に満ちた声だったが、反面、ブランシェットは苦しそうではなかった。話すことで思い出す過去には辛いものがあるが、話すこと自体は逆に辛くないのかもしれない。抱えていたものを吐き出すというのは、そういうことだ。
「ところが、我々の知らぬ間に、彼はファンティーヌを見つけ出していた。当時我々は彼から少し遠ざけられていて…得体の知れない連中が多く出入りしていたのですが、とにかくその連中が探し当て、彼女を苦境に追い込んだ。彼女の夫を事故に見せかけて殺し、娘を手放さなければならない状況を作り上げ、そしてまんまと預かるといって娘、ユーフラジーを取り上げた…」
では、とロイは目を伏せる。店主が話していた、つらく当たられていて、というのはその時代の話なのだろう。
「私はずっと気づかなかった。けれど、たまたまポワティエの屋敷に息子を連れて行ったとき、息子が気づいたのです。女の子がいる、と。ポワティエさんには子供はいないのに、誰なんだろう、と。ぞっとしました。まさか、と思った」
「…ご子息は、アルーエット、と呼んでいましたが」
「…。あれが、このことを話したのですか?」
ロイはじっとブランシェットの目を凝視した後、静かに首を振った。
「私は、ユーフラジーの居場所を知っている」
「…、」
「ご子息も知っていましたよ。あなたはご存じなかったのですか。本当に? 私に探せと仰ったのは、何か理由があったのですか」
「…アルーエット、というのはポワティエが彼女につけた名前です。ひばりのことです。小鳥でも飼うような感覚だったのでしょうか。私にはわかりませんが」
「……」
それならコゼットのあの態度にも納得がいく。楽しい思い出ではないだろう。そして、そんな状況から助け出してくれたのなら、店主に恩を感じてもおかしくない。
「ユーフラジーというのは、ファンティーヌとその夫がつけた正式な名前だそうです。戸籍を調べました。ただ、今はその名前を名乗っていなくても、不思議には思いません」
「…そのひばりが盗み出されたとき、あなたは、ファンティーヌが逃げ出したときのように、あえて追わなかった、と?」
ブランシェットは頷いた。
「ポワティエは今度こそ半狂乱でしたが、…これ以上あの母子を苦しめたくなかった。得体の知れない連中も皆屋敷から追い出した。…息子には何も話していませんでしたが、アルーエットがさらわれたと騒いでいました。今にして思えばきちんと話すべきでした。…私は…彼女の居場所も知らなかった。息子が知っていたなら…やはり、早く話すべきでした」
ブランシェットは一度テーブルの絵画を見た。いとおしむような視線に、彼の表からは見えづらい心情が見て取れる。それからおもむろに顔を上げ、人間味のある顔でゆっくりと口を開いた。
「大佐。彼女たち親子を、助けて欲しいのです」
「……」
「どうすれば助けられるのか、わからなかった。錬金術師を頼ろうにも、私が知っている錬金術師といったらあの絵を描いた男だけです。だが彼はもういない。他に知り合いもいませんし、財団の他の人間に知られるわけにもいきませんでしたから」
ロイは黙って聞いていた。
「展覧会の話があった時、それがこのイーストシティだと知ったとき、今しかないと思ったのです。大佐」
「随分高く買ってくださったようだ」
悪く言われるのは慣れているがよく言われることは滅多にない。そういえば、彼の息子には随分嫌われていた。
「ブランシェットさん」
「はい」
「あなたに、会わせたい人がいます」
「……」
「ただ、ひとつお約束して頂きたい。あなたの素性をけして名乗らないこと」
これでブランシェットには総てわかったのだろう。彼は目を瞠り、暫く言葉を発さなかった。
「…ええ、ええ、勿論」
少し震える声で答えた男に、ロイは双眸を緩める。