serenade
「におい? …すまない、よくわからない」
くん、と鼻を近づけたら嫌がるように逃げられる。離れた体温がなんだか寂しい。
「いつもどおりだ。いい匂いだよ」
「…なんだそれ。そんなわけねーし!」
べっ、と舌を出す顔は真っ赤だけれど、もう泣いたり不安がったりはしなさそうだとほっとする。
「…鋼の」
「…うん」
「今じゃなくていいんだが」
「……なに?」
「いつか、頷いてほしい。私は、君が好きだよ」
エドワードは困ったように俯いて、また助手席で膝を抱えた。そうして、ちらっとロイを見上げる。
「…それって、今じゃだめなのか」
「――え?」
黒い瞳が驚きに瞠られる。エドワードは頬を膨らませてそっぽを向く。金髪からのぞく耳が赤い。
「…もちろん、」
ロイは笑いそうになるのを堪えながら、小さく笑った。
「今だって、いつだってかまわないさ」
「………」
エドワードはすぐには何も言わず、しばらく黙り込んだ後、そっとロイの手を持ち上げた。顔は見ないままで。ロイも何も言わずにエドワードのしたいようにさせる。
どうするのかと見守るロイの視線の先、エドワードは男の手を持ち上げ、そっと唇をつけた。そして。
「…すき」
蚊の鳴くような声で言葉をくれて。あらためて言葉にされると、いやきっと何回聞いても嬉しくて。ロイはその手を引き戻すようにして小柄を引き寄せ、頭のてっぺんにキスした。子供だましだけれど、これ以上驚かせたくない。腕の中で身を竦めるロイの宝物は、まだとても不安定なのだから。
七時少し前、セレナーデの前で一人の男が佇んでいた。年齢不詳だが、よくみれば顔に刻まれた皺は深い。緑を帯びた褐色の目が印象的だ。
「お待たせしてしまいましたか。すみません」
看板をじっと見つめていた男は、背後からかけられた声にゆっくりと振り向く。意外に思って目を瞠ったのは、相手が一人ではなかったからだ。まさかこれが会わせたい相手かと視線で問えば、違うとばかりに首を振られた。
「この子はここの常連なんですよ。…さあ、入りましょう。今夜は寒い」
一度家に帰ったのだろう。やってきた男は、軍服に身を包んでいなかった。隣に連れている金髪の子供…少年とも少女ともつかない人物も途中で拾ってきたのか。
とにかく、詮索しても仕方がない。ブランシェットは促されるままにドアを押した。ちりん、とベルが鳴る。
「こんばんは!」
いらっしゃいませ、という元気の良い声にこちらも元気よく答えたのはエドワードだ。ブランシェットはエドワードを見、その後店内の女性を見る。その目が、ゆっくりと見開かれていく。
「……」
「入りましょう。席は予約しておきました」
立ちすくむブランシェットに、ロイがひそめた声で再度促す。
「こんばんは、お席こちらでよろしいですか?」
「ああ。ありがとう、コゼット」
カウンターとその奥の厨房が見えるテーブル席に案内され、ロイは礼を告げる。エドワードはもうコゼットとあれこれ話し始めていて、随分なついているんだな、と妙に感心してしまう。
「お飲み物、何をお持ちしましょう?」
朝方の強張った顔が嘘のように、コゼットはいつも通りの朗らかな顔で問いかけてくる。この様子だと店主も朝はたまたまいなかっただけで、厨房にでもいるのだろう。
「そうだな。我々には赤を。…君はどうする?」
「レモネード」
「あたたかいのがいい? つめたいのがいい?」
「…あったかいのがいいな」
テーブルに頬杖をついて首を傾げるのは妙に幼い仕種で、思わずロイは目を細めてしまう。頭がおかしいくらい、エドワードが何をしても可愛いとしか思えなくなっている。…重症だ。
「えっと、今日のおすすめはこの辺なんですけど…」
コゼットは初見の客を意識したのか少し大人しめにメニューが書かれた黒板を示す。ブランシェットは瞬きした後、では、あなたのおすすめを、と少しはにかんだような調子でオーダーする。コゼットはこの言葉に一瞬目を丸くした後、嬉しそうに笑って、「では、腕によりをかけて。オニオンとマッシュルームのキッシュがおすすめです」と答えた。ロイもまた頬杖をついてその様子を見守っていた。
…キッシュはほうれん草が好きなんだ、というのは、ひっそり心の中にしまって。
エドワードが手洗いに立って、そのままカウンターでコゼットと話し込み始めた時。店内はほどよく混みあっていて、ロイはそっとブランシェットに話しかけた。
「彼女に、遺産は必要だとお思いになりますか」
ブランシェットは目を細めてコゼットの一挙手一投足を見守っている。夢でも見ているような顔で。そして、やっとかすれる声で出した答えはといえばだ。
「…必要ないように思います。彼女は…、今のままで十分に明るいし、幸せそうに見える」
「……そうですね」
暮らしは豊かとはいえないかもしれない。それでもコゼットには笑顔があった。きっと、それはブランシェットの記憶にはないものなのだろう。閉じ込められていたひばりは、今自由に空を飛び、歌うことが出来る。それで十分なのかもしれない。
「…大佐」
視線だけでブランシェットの方を向けば、彼はコゼット達を見つめたままだった。そして、そのまま微かに紡ぐ。
「…ありがとうございました」
ロイもブランシェットの視線に倣う。そこではエドワードもまた屈託のない顔を見せていた。
「いえ。…私は何もしていません」
ひそめた声はワイングラスに吸い込まれていく。
食事を終え、ブランシェットとは店の前で別れた。エドワードはコゼットと何か話しこんでいたので、ロイだけが先に彼を見送るために店の外へ出たのだが、ブランシェットが背中を向けたとき、店から店主が出てきた。
「待ってください」
ロイが目を瞠っている隣で、店主はブランシェットに呼びかけていた。気づいていたのだろうか、とロイは瞬きして様子を見守る。
「…ブランシェットさん」
意外そうな顔で振り向いた男に、店主は深々と頭を下げる。ブランシェットはそれに息を飲んだ後、慌てて店主の手をとり、頭を上げるように懇願する。だが、店主は頑として受け入れない。
「顔を上げてください。お願いします。私はあなたを告発しにきたのではない」
ブランシェットもとうとう膝をついて、下から店主を見上げた。店主はそこで、顔を抑えてがっくりと膝をついてしまった。ふたりの、どちらかといえば年を取った男は道端に膝をつき、固く手を取り合う。
「…あなたがあの子を連れ出してくれて、よかったと私は思う」
「責めないのですか、わしは…あの子をさらったのも同然なのに」
「それでも、あの子は今笑っています。それがすべてです」
表情のないと思っていたブランシェットだが、強張った頬の下には存外多くの感情を持っているようだ。
「…マドレーヌさん。ありがとう。あの子の笑った顔が見られるのはあなたのおかげだ」
染み入るような声は彼が本心から言っている証だろう。ロイは二人の姿を離れて見ている。エドワードはまだ出てこない。
「ブランシェットさん」
店主はポケットから折り畳んだ紙を取り出した。
「…? これは?」
「…ファンティーヌの、亡くなった夫の墓の場所です」