serenade
刻一刻と寒さを増していく薄暮の中、仕事帰りや夕飯の買い物で賑わう通りを、ロイの背中を見ながらエドワードは歩いていた。中尉に言われたように、やはりロイの様子は少しおかしいように思う。
「……」
そしてその「おかしさ」はどうやらエドワードにまで伝染してしまったらしい。見上げた顎のラインや広い背中、しっかりとした肩幅、迷いのない足取り。そんなものはとっくに知っていたはずのものなのに、今日に限ってなんだか落ち着かない気持ちになる。胸を掴まれたような、駆け出してしまいたいような。もやもやしていてうまくいえないのだけれど、一番実情に近いのは「おちつかない」という表現だった。
「なぁ、たい、さ…」
呼びかけるのもなんだかためらわれ、といって子供のようにコートを引っ張るわけにもいかない。しかしこのままどこにいくのかもわからず、これという会話もなくついていくのもつらい。
雑踏では、そんな小さな声は届かない。それがわかっていても大きな声など出せないエドワードの精一杯は、しかし、ロイの耳にはきちんと届いたらしい。彼は弾かれたように立ち止まり、くるりとエドワードを振り返った。それがあんまり急な動きだったもので、エドワードはたたらを踏んでしまう。そして、そのままロイに抱きとめられることになる。顔を埋めた胸の辺りは当たり前だけれどしっかりとしていて、エドワード一人が寄りかかったところで少しも揺るがない。
「…大丈夫か?」
低い声が頭上から降ってくる。抱きとめられたことで鼻腔を満たすロイのにおいに頭が真っ白になった。何がなんだかわからなくなってしまう。
「…だ、だいじょうぶ…」
またもや小さな声でようよう答えたら、ぽん、と頭を撫でられた。少しぎこちないような触れ方はもっとエドワードを落ち着かない気持ちにさせたけれど、自分が緊張するようにロイも緊張するのかもしれないと思ったら、逆にほっとした。自分だけではないのだ、と思えて。
「…君の髪はやわらかいな」
しかし、やわらかな驚きを帯びた声でそんなことを言われ、またしても動悸が早くなる。そんなに驚くことではないはずなのに。ロイの声がいけない、と思うことでエドワードは何とか自分を納得させた。…意識して考えたことはなかったけれど、ロイの声は耳ざわりが良い。それに喋り方ひとつとっても、なんだか余韻があって引き込まれてしまう。結論、つまりロイのせい。
「さて。そろそろ腹も減っただろう? とっておきだよ」
ぽんぽん、ともう一度エドワードの頭を撫でてから、無理に小柄を引き離すでもなく、やんわりと肩を掴んで離した体を反転させて小さなレストランと向かい合わせる。エドワードの肩と背中を押さえるようにしながら、ロイはまるで、子供や小さな動物にかけるような優しい口調で店の名前を読み上げた。
「セレナーデ。きっと、君も気に入る」
ソーダガラスの窓からのあたたかい光はオレンジに揺れて、ロイの自信に満ちた台詞に反論する前にうっかり頷いてしまった。
石造りの店内は古い家を改築したのだろうと思わせた。けれど、その古さはどちらかといえばエドワードにとって慕わしいものだった。全力疾走よりもっと走っていた鼓動が段々落ち着いてくるのを感じながら、エドワードはきょろきょろと店内を見回す。天井近くまで並べられたワインボトル。ラベルだけのものもあればメッセージが書かれたものもあって、どれひとつとして同じではなく、見ていて楽しい。そのひとつひとつに残された、小さな物語を感じられるからだろう。
「君、何か食べたいものは?」
そんなエドワードに、小さく笑いながらロイが声をかけてきた。あ、とちょっとばつが悪そうな様子で顔を戻すエドワードはいくらか首をすくめるようにしていて、ロイは目を細める。小動物みたいだ、とこっそり思って。
「メニューになくても、リクエストしたら作ってもらえるよ」
丁寧に教えてくれるロイの様子はやっぱり「おかしい」ように思えた。ただ、問題は、そのおかしいのがけしていやではないことなのだ。だからエドワードは混乱するしかない。
意地悪を言わなくて、からかわなくて、嫌味に笑わない。そんなロイはいやかと言うと別にいやではないのだが、けれどやはり落ち着かない。しかしそこまで考えて、こうやって二人きりで過ごしたことはなかったのだと気づく。もしかしたら二人だからこうなのだろうか。…なんだか複雑だ。誰といても、それがエドワードでなくとも彼は「誰かと二人きり」だとこうなるのだろうか。
「…あったかいのがいい」
「漠然としてるな」
「…だって寒いし。グラタンとか…シチューとか…」
ロイは軽く二、三度頷いた。聞き流しているのか、それとも聞き取ったことを整理しているのか。エドワードにはよくわからない。
「鶏がおいしいよ。香草焼き」
「じゃあそれも」
「白レバーのパテも」
「…レバーあんまり好きじゃない」
ロイはわかったと頷く。普段だったらここは、なんだ鋼のはレバーがだめなのか、お子様だなあ、とかなんとかからかわれるはずである。エドワードはなんだか焦った。からかわれるのが好きなわけではない。でも、普段と違うというのはそれはそれで落ち着かないのだと知ってしまった。難しいものだ。
「べっ、べつに、あんたが食えばいいだろ、オレは食べないかもだけどでも別に、」
落ち着かない気持ちを反映するように、自然、早口でまくしたてるような口調になってしまっていた。ロイは目を瞠った後、口を押さえて笑いを噛み殺している。それを見ていたらかっとエドワードの頭に血が上った。やっぱり、馬鹿にされたりからかわれたりするのはむかつく、といった所。
「ありがとう」
しかしロイは先手を打つ。さらに何かわめきだそうとしたエドワードより先に、礼を告げることで。こう言われてはエドワードも反論しにくい。というかできない。
うぐ、と詰まったエドワードに、ロイは何事もなかったかのように読み上げる。
「インゲンと白レバーのパテ、美味いんだ。それから…温野菜のサラダを頼もう」
「…。大佐酒は?」
ちぇ、とそっぽを向きながら尋ねたら、ロイは目を丸くした。そして失礼なことを言う。
「どうした、気を遣うなんて」
「人を全然気がきかないみたいに言うな」
むっとして若干頬を膨らませたら、すまんすまん、と笑われた。そしてまた、怒り出す前に、今度は頭を撫でられる。
「じゃあ君にジンジャーエール、私に赤。そうしよう」
並べられた料理にくるくると表情を変える子供を見ながら、ロイは内心でやはりあの手紙のことを考えていた。いや、考えていた、という程に明確な思考ではなかっただろう。
ただ、どういうことなんだろう、と思っていた。
手紙に消印はなかった。ある日突然、ロイの家の郵便受けに入れられていたのだ。順当に考えて、直接郵便受けに入れたのだろう。
便箋も封筒も、何か変わったものではなかった。白い、ごく普通の、飾り気のない便箋と封筒だ。
「…、」
いや、とロイは顎を押さえて思い出す。確かに何の変哲もない便箋と封筒だった。だがしかし、何か、今にして思えば香りがかすかにしていた気がする。どこかでかいだような…。
「大佐? 食わねーの?」