serenade
「…いや、…猫舌なんだ」
物思いに気を取られてしまっていたら、エドワードが怪訝そうにこちらを見つめていた。金色の大きな瞳は、今は室内の灯りを受けて燃える蜂蜜のようだ。舐めたら甘いのではないかと思った思考を、舌が火傷する、と苦笑混じりに宥める男の心などエドワードは知るまい。知られても困るが。
「ふーん? あ、だからパテが好きなのか?」
小首を傾げた後、わかった、というように閃いた表情で言うのはなんだか可愛らしくさえ見えてしまう。
?わたしの愛するエドワードを愛するあなたへ?
「…ああ、そうかもしれない」
どうにか平静に務めて返すけれども、脳裏にはしっかりとあの手紙が思い起こされていた。あの、静かな確信に満ちた手紙はなんなのだろう。ありえないけれど、本当にトリシャ・エルリックからの手紙だと思うのが一番正しいように思える。そんなはずはないが、しかし、母親の確信だといわれた方が納得できる、気がする。
ロイは確かにエドワードを気に入っている。だが、気に入っている、イコール愛ではないし、よしんば愛情だとしても、それは恋とは違うものだ。信頼とか親愛というようなものである。小さな子供を可愛いと感じることに、一般的には理由はいらないという、そういう類のものだ。
「折角これとかうまいのに、香草焼きとか…」
猫舌かあ、と心底哀れんだ様子で言ってくる無邪気な顔に、恋を見出すのは難しい。
難しかった、はずなのだ。少なくともあの手紙が届くまでは。
「ついてるよ」
「えっ?」
笑いながら教えてやれば、慌ててフォークを置いた。ロイはくすくす笑いを続けながら、自分の唇の脇を指先で示す。しかしエドワードはロイと鏡のように対象にして自分の頬をなぞるものだから、反対側についている香草の欠片が拾えない。
「逆、逆」
ロイもつい楽しい気分になって、結局指を伸ばしてそれを掬い取ってしまった。しまったと思ったのは、唖然とした後赤くなってうつむいたエドワードの顔を見たときだ。なんだかつられてこちらまで赤くなってしまう。
「…おいしいかい」
「あ、…う、うん」
ぎこちなく頷く頭が随分小さいと、そんな知っていたはずのことにいちいち驚いてしまう。
恋に落ちるとはこういうことをいうのだろうか、と不意に脳裏をかすめた、言葉とも印象ともつかないそれに、ロイは全面降伏するしかないのかもしれない。
「あ、たいさ、ほら、これもこれも」
動揺をさとられまいとする照れ隠しなのか、そんなところは長子なのか、ロイの皿に鶏やグラタン、牡蠣や野菜をよそってくれる、ちょっと不安げな手つきが可愛かった。
目に毒だ、と自分を落ち着かせるために室内に視線を逃がせば、壁に立てかけるように飾られたヴァイオリン。繊細な楽器をそうやって飾っているからには、あれは実用ではないのかもしれない。しかしよく見ればその筐体には何かサインのようなものが見て取れるから、誰か音楽家が残していった、なんていわくでもあるのだろうか。以前来た時も飾って会ったのだろうが、しみじみとその存在に気づいたのは今夜が初めてだった。
「? あ、ヴァイオリン…」
と、ロイの視線を追うようにしてエドワードが呟いた。
「あれ、本物かなあ」
子供っぽい台詞にロイは思わず噴出してしまう。あんまり無邪気に聞こえて。
「な、なんで笑うんだよ」
「いや、…そうだな、確かにそうだ。私も同じことを考えていたから」
「なんだぁ」
馬鹿にされたのではない、と気づけば寛大な気持ちにもなる。エドワードはおおらかに許すことにした。
「でも、サインが見える。誰かが寄贈したのかと思って」
「あ、ほんとだ」
ロイが示したサインを、目を細めてエドワードも確認する。癖の強い字で、しかも色が濃いから書いてあることはあまりよく見えなかった。
「お近くでご覧になりますか?」
と、他のテーブルに料理を出していた初老の給仕が声をかけてきた。給仕と言うか、店主なのだが。
「え、」
突然声をかけられて、エドワードは目を丸くする。そんな様子に目を細めた後、ロイは店主に頷いた。
「見せていただけますか」
「ええ、どうぞ」
店主は穏和に笑って、飾られたそれをとってくる。どうぞ、と差し出されたヴァイオリンには、サインではなくメッセージが添えられていた。
?いつまでもかわらない愛を ファンティーヌへ捧ぐ?
「…これは…?」
あなたの? と続きは目で尋ねたロイに、店主はおっとり笑って首を振った。
「私の古い友人の形見です。ここに飾って欲しいと、娘が私に言うので…」
「……?」
ああ、と彼は少し照れくさそうに続けた。
「彼女は、…ここに書かれているファンティーヌは娘を残して随分若いうちになくなって。私がその娘を引き取ったのです。今は、厨房で働いていますよ」
つまり、誰かがそのファンティーヌへ贈ったヴァイオリンがファンティーヌからその娘への形見にもなったということらしい。店主とファンティーヌの関係はわからないが、複雑な事情があるのかもしれない。
「じゃあ、この料理も?」
それまで黙って聞いていたエドワードのこの質問に、そうですよ、と店主は頷く。話題の転換にロイは瞬きした。複雑な事情に切り込むのではなく、今目の前にある事実についての質問にロイもいくらかほっとした。
「おいしいですって、伝えて」
くすぐったいような、照れくさそうな顔でそう言ったエドワードに、店主は再び頷いた。嬉しそうに。
「ありがとうございます。とても喜びます」
「…このヴァイオリンは、弾けないのかな」
不意に、ロイがそんなことを呟く。え、と店主とエドワードが同時にロイを見た。それに驚いたようにロイは目を瞠った。もしかしたら独り言だったのかもしれない。
「いや。…飾っているだけなのかと思って」
言い訳するような口調に、大佐が焦ってる、と何となくエドワードは思う。なんかかわいいのな、とまで思って、可愛いってなんだ、と慌てて首を振ったけれど。
「残念ながら、私も娘も楽器は苦手で…。それに、どうでしょうか、店内にずっと置いていますから。乾いて、もう音がかわってしまったかもしれません」
そういうこともあるのか、とエドワードは「へえ」という顔で首を捻る。
「…お客様は、ヴァイオリンが…?」
不意に気づいた顔で、店主はロイに尋ねる。確かに、この流れではロイが弾ける可能性も感じられないでもない。ただ、どうしてもエドワードには、ヴァイオリンを弾くロイの図が想像できなかったが。
「…昔少しだけ。もう、忘れてしまったよ」
幾許かの間を置いて、ロイは苦笑した。それがなんだか泣いてしまいそうな顔に見えて、エドワードはロイから目が離せなくなった。ゆっくりと噛みしめるように口にされた言葉と一緒に、それは、エドワードの中で忘れられない印象になった。
宿まで送っていこう、そう言い出したロイを突っぱねなかったのは、ロイが一瞬だけ見せた表情が忘れられなかったからかもしれない。けれど一緒に歩いていたら、そもそもなぜこうやって二人で歩いているのか、と言うことを思い出し、中尉の台詞まではっきりと思い起こした。
恋わずらい、と彼女は言った。