serenade
あらためて恋と言うと、なんだか漠然と落ち着かない気持ちだった。それがつまりどきどきするとか、そういうことなのかもしれないけれど、よくわからない、というしかないものだった。まだ、エドワードにとっては。辞書で言葉を見るように遠いものでしかなかった。
「大佐」
「うん?」
穏和に振り向く男の背後には夜空が広がっている。見上げた瞳は吸い込まれるように黒く、そして、月明かりの照り返しで本当の夜空のようにも見えた。
「大佐、好きな人っているのか」
聞いてしまってから失敗したと思った。ロイがあまりに驚いた顔をしたからだ。
「…や、えっと、…今のナシ!」
ごまかしにもならないことは承知していたけれど、空気に耐えかね声を上げ、ロイの先へ走っていってしまう。もう宿も近い。
「お、おやすみ! あ、あんまぼーっとしてんなよ! 中尉も心配してたからな!」
じゃあな、と振り返りもせず駆けていく背中を食い入るように見つめていたロイだったが、エドワードが宿に滑り込んでしまうと深く息を吐いて、道路にしゃがみこんでしまった。頭を抱えるように。
「…私の愛するあの子を愛するあなた、か…」
手紙の中の一節を苦く呟いて、彼はがっくりとうなだれた。
情報を整理するというのもあり、故郷やダブリスを除けば一番居心地のよい街であるイーストシティへの数日の滞在をエルリック兄弟は決めた。セントラルほどに雑多でなく、田舎のように不便でもない。それに、…困ったときに頼れる相手もいる、とは、アルフォンスが意識的に思い、エドワードが無意識的に思っていること。
「…にいさん、だいじょうぶ?」
「ん」
いつも元気が売りのエドワードにしては珍しく、腹と腰が痛い、といってベッドでごろごろしていた。なんだろうと思いながらも、生身ではないアルフォンスには何も出来なかった。
とはいえ寝込んでいるというほどでもなく、横になって本を読んではいるので、どうしようもないということでもないらしいからまだ安心だけれど。
「お腹は? すかない?」
「平気だって。…アル、気にしないで図書館とかいってきていいんだぜ」
ちょいちょいと手招きして、引き寄せた弟の腕をぽんぽんとエドワードは叩く。
「もう…ボクひとりだったら、いかないよ。そんなことしたらご飯食べないじゃないか!」
「食べるって、んな、ガキじゃあるまいし」
「…説得力、全然ない」
ぷい、とアルフォンスは横を向いた。
「…母さんみたく、いなくなっちゃわないで」
「……アル」
そのままうなだれた弟の言葉に、さすがにエドワードの顔も曇る。
「…女の人は、皆そうだ。がんばってるの、本当に大変なときはいつも見せてくれないんだ」
「アル」
咎めるように名を呼べば、ごめん、と弟は素直に謝った。
「…ごはん、買ってくるね。何がいい?」
エドワードは複雑な顔で肩を怒らせていたが、諦めたように溜息をつくと、「ホットドッグ」と苦笑とともに答えた。
昼時には少し早かったけれど、それでもやはり街には活気があった。ホットドッグ、ときょろきょろしていたアルフォンスは、あ、と雑踏の中に見知った顔を見つけて声をあげた。思わず足を止めて見つめてしまったら、相手はそれに気づいてこちらを振り返る。軽く見開かれた黒い瞳は、純粋な驚きに満ちていた。けれどその後ふっと和ませたのは、知己に見せる親愛なのだろうか。
うわあ、とアルフォンスは何となく思ってしまう。彼はきっと、性別を問わず人を惹きつけるのだろうな、と。
「アルフォンス。久しぶりだ」
彼は器用に人波を抜けて、アルフォンスのところまでやってきた。
「ご無沙汰してます。昨日は兄さんがごちそうさまです」
「いや。おかげで私も久々にまともな食事にありつけたよ。鋼のに感謝しなければ」
穏和に引いてくれる態度はアルフォンスを寛がせる。なんだかんだ言ったところで彼はやはり大人なのだ。エドワードとつまらないことで口喧嘩しているのは、どちらかといえばイレギュラーなのだろう。彼にとって。
「そんな。食事の機会、多いんじゃないですか」
「食堂ならね」
肩を竦めて大げさに嘆いてみせる。そんなところも気さくだ。
「…今日も別行動かい?」
昨日はイーストシティへの到着があまり早い時間ではなかった(そこまで遅かったわけでもないが)ので、アルフォンスが先に宿に向かったのだった。それでエドワードだけが東方司令部へ顔を見せた。内心の葛藤はきれいに消して問うロイに、アルフォンスは「うーん」と曖昧な苦笑。
「何かあったのか?」
仲のよい兄弟だが喧嘩しないわけではない。若干眉を曇らせて続けたロイに、違う違う、と今度は軽く笑って少年は答える。
「腰が痛いんですって。あとお腹だったかな。でもお腹を壊してるわけじゃないみたいだし、ここの所移動が続いてたから腰痛くなっちゃったんじゃないかと思いますよ」
しかし、アルフォンスの返事にロイの顔はまた曇った。あれ、と思う少年に、彼は短く言う。
「それはきついだろうな…ゆっくり休むように伝えてくれ」
「…はい」
ロイが優しくないと思っているわけではなかったが、それでもあまりにもストレートに言われると少し驚いてしまうのは仕方ないことだろう。普段と違いすぎる。
「もしかして、昼はこれからかい?」
「え? あ、はい。ほっとくと食べないから、買出しに。何食べたいって聞いたらホットドッグですって、食べるのめんどくさいって思ってるのがまるわかりですよ」
今度はロイも深刻な顔はしなかった。アルフォンスと同じように、しようがない、という顔で笑って頷いた。
「そういうことなら、少し、ついてきたまえ」
「え? ホットドッグ、大佐も食べるんですか」
首を傾げたら「そうじゃない」と笑われた。彼はアルフォンスがついてくるのを疑いもしない足取りで、やはり器用に人波をすり抜けていく。
「昨日連れて行った店にね、たまに昼食を頼むことがある。鋼のも気に入ったようだったから、そこからランチボックスを差し入れてもらえばいいかと思って」
なんでもないことのように言われて、それがあまりにも自然な態度だったから、アルフォンスもそうですかと疑いなく頷いてしまいそうになった。だが、すぐにはっとした。
「え、そういうわけには、」
世間的にわかりやすい形ではないにせよ、ロイが兄弟を支援してくれているのは確かだ。いくらなんでも、特権があるにしても、才能があるにしても、それでも子供二人での旅には限度がある。見えない部分で彼がフォローしてくれていることは、きっとあるだろう。そう思えるくらいには、アルフォンスは大人びた少年だった。だから、年相応の子供のように素直に甘えることが出来ない。
しかしそんなことまで見抜いた様子で、ロイは朗らかに笑う。
「なに、気にすることはない。ついでだよ」
精悍な顔を少年のように素直に笑み崩して言う彼は、アルフォンスから見ても魅力的な人物だった。
セレナーデ、という小さなレストランを、アルフォンスも一目で気に入った。勿論料理の味ではない。親戚の家(アルフォンスに親戚はいないけれど、いたとしたら、という話)でも訪ねたような、そんな不思議な懐かしさが感じられたからだ。