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笑い鬼

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鬼だ、と云われている。
父のことである。
戦場での父を、重長は噂でしか知らないがその頃からそう呼ばれていたようだ。なにしろ剣の腕では未だに一本も取れないので、さぞや勇壮であっただろうことは想像に難くないのだが、それ以上に戦場での父はまったく鬼そのものであったのだという。
曰く、ひととは思えぬ残虐な殺し方をした。
曰く、知略の冷酷なことは赤い血の流れを感じさせぬ。
噂は絶えず、それは父の武功を称えるのとおんなじだけ、それ以上の重さを伴い重長の耳に入ってくる。決して非難がましいわけではなく、ほとんど賞賛と変わらないはずのその噂は、それでも重長の持つ父への感触を頑なにした。
そうか父はひとではないのか。
そう思わせるに足るような父だった。
重長は父にあいされた記憶がない。父が笑ったところも、和らいだ顔を見せたところすら見た記憶がない。決して厭われたわけではないが、あいされたと実感したこともなかった。おさないときは随分そのことで苦しんだものだが、長じてから理解したのはつまるところ、父は自分に興味がないのだと
いう、その単純な結論である。
その結論はそれなりに重長を慰めた。
父はつまり、誰にも興味がなかったのである。
だから父が鬼だと、ひとではないのだという話を聞いても不思議には思わなかった。むしろ安堵したものである。ひとではないのなら、あいするという感情を父が持たずとも何も不思議はない。自分があいされなかったのは自分のせいではないのだ。母は誰より重長をあいしたので、重長は決して卑屈なこどもには育たなかった。母に似て整った容貌を持ち、父譲りの剣の才を擁した若い青年を、家人も、伊達家のひとびとも皆あいしたのである。
父だけが相変わらずそっぽを向いていた。
鬼なのだから仕様がないと重長は考えるようになった。
鬼はそのうち病に倒れた。鬼でも病には勝てぬのだと重長は滑稽に思った。床に臥せり、戦場に出ることが適わなくなった鬼は重長を枕元に呼び、家督と「小十郎」という名をあっさりと譲った。鬼が重長に命じたのはおかしなことばかりだった。
一つに、決して名君とならぬこと。
一つに、決して家の繁栄を願わぬこと。
一つに、決して自らの命を慈しまぬこと。

「それが出来ぬのならば「小十郎」の名は何処かへ棄てるといい」

重長には鬼の言葉が理解できなかった。
家督を継ぐ者に対して、家の繁栄を願うなとはどういうことだろうかと思った。実際鬼は民にひどく評判が悪く、重長は家督を譲り受けた早急に税の制度を変えようと思っていたので、出鼻を挫かれるかたちである。片倉家は十分に富んでいて、伊達家全体の方針である富国強兵のおかげでことさらに税を厳しく取り立てる必要などどこにもない。鬼のすることは、敢えて自らの評判を落とそうとしているようにしか重長には思えなかったが、―――
矢張りそうなのだろうか。
それとも、と重長は思う。
鬼はひとの不幸を望むものか。
ともあれ鬼の生きている間はそれを破ることができない。だから相も変わらず、意味もなく片倉の家は民に評判が悪いままだった。政宗が富国を成し遂げ、税もそれに伴い低くして民に喝采を浴びているのとは対照的である。伊達家のお歴々からも散々な叱責を受けた。重長はその度、困ったようにあいまいな返答で誤魔化す他なかった。
不思議と政宗は何も言わなかった。
母も何も言わない。
母は鬼をあいしているようである。
理不尽な鬼の命を話しても、母は笑うだけだった。

「あの方がそう仰るなら、仕様がないことね。この家はあの方が作ったのだから、どうしようとも、それはあの方の御一存ですもの」

母は決して弱い女ではなかったが、こと鬼に関わることとなると途端に語調を下げてしまうのが常であった。それもまた重長には気に入らないことのひとつだった。その態度を隠さずに現わすと、母は決まってまた笑った。

「次の当主はおまえなのだから、あの方が死んだ後は好きになさい」

母はそういうことを平気で言う女だった。
それでいて、その笑顔はどことなく淋しげで、鬼がいつか死ぬことを考えるだけで母はかなしいのである。そんな顔をされてしまえば重長も黙る他なかった。
鬼は段々に衰えていった。
けれどもその速度は、重長が政宗に告げたほどには急速でなかった。今でも登城しようとすれば可能であるし、ましてや床から出られないということはない。時々は稽古に出てくることもあるし、遠乗りに出ることもある。それでも鬼は政宗と頑なに会おうとはしなかった。その由も矢張り重長には解りようがなく、主であれども鬼はあくまで苦しめたいのだろうかと思うくらいが関の山だった。政宗は端から見ても異様なほど、鬼に執着している。それは鬼が政宗の前から姿を消すのとおんなじに、益々強まっていくようだった。
政宗は重長を傍に置いては、笛を所望した。
そしてひどくいとおしげに、

「小十郎」

と呼ぶのだ。



作品名:笑い鬼 作家名:そらそら