嘘つきへーくんと壊れた×× 『真実の証明は嘘』
化物は昔読んだ子供向けの絵本に出てくる赤鬼とか青鬼とか、あの辺をさらに凶悪にしたような見た目であると考えておけばいいだろう。全体的に黒っぽい感じ。
その非現実的な醜い化け物、それと戦う少女、彼女の体から漂う腐った血のような異臭、ざわめく教室、女子の悲鳴。
全て一瞬の出来事として済まされる。
教室のドア付近に座っていた女子が逃げ遅れている。見境なく暴れる化物の腕が、女子の脳天に向かって振り下ろされた。
弾丸のように現れた日本刀の少女は、その細い体を、化物と女子の間に間一髪で滑りこませた。
刀を盾に、振り下ろされた腕を受け止める。が、化物のもう一方の腕の、横薙ぎの一撃をまともに食らった。筋肉隆々とした太い腕の一撃。
教室の机、椅子、それから逃げ遅れて座ったままの生徒を巻き込みながら、窓際まで彼女は吹き飛ばされる。
壁に背中から叩きつけられ、呻いた。
口の端から一筋、血。倒れこんだまますぐに顔を上げ、きっとおれの方を、睨んだ。
そうだ、その赤茶色の目は、あの化物ではなくおれの方を見たのだ。あの落下の途中の色と同じように。
「兵助、何故だ!? 何故貴様は動かない! 早く思い出せ!」
燃える赤い目と、どこか懐かしい高い少女の声色。
つまりこれが、彼女とのファーストコンタクトだった。
嘘だけど。
空から美少女が降ってくるなんてのは、ありえない話。ただし例外に飛び降り自殺。
「久々知、問6」
黒板の前で、教師が言った。おれは教科書へ視線を戻した。当てられてしまった。が、別に焦るようなことじゃない。なぜかというと、さっき前の席のやつが問5を当てられていたので、次はおれだと判っていたから。この教師は席順の通りに当てるので、やりやすい。
「九」
「正解」
と、こんな風に、直前まで全然別なことを考えていたとしても余裕だ。
次に当たるのは後ろの席のやつ。このクラスは四十人いるから、大抵の場合は二回目はこない。
教師は今の問題の短い解説の後、素早くおれの後ろの席のやつの名前を読んだ。そいつは即答できなかった。解く時間は十分あった気がするが、寝てたのだろうか。教師はからから笑って、「寝てただろ?」とおれが考えたのと同じ事を言った。
ごく当たり前の授業風景だし、おれは窓際の席じゃないし、席を立ってもいないし、落下して潰れる美少女はいないし、日本刀を携えてモンスターと戦う美少女はおれの妄想だし、この初老の教師もどんな事情があろうと突然怒鳴るような性格でもない。つまり全て嘘だ。
孤独な教室の中での現実逃避、誰にだって経験はあるだろう。
孤独だって言っても、教室の中には四十人の生徒が乱雑に並べられて座っている。教師は始終喋っている。客観的に見れば全く孤独でもなんでもない。
でも主観的には孤独。おれ一人の個人的な理屈により、孤独。
理由は?
突然窓から飛び降りたりしないように気を使われて、窓際の席に座れないからとか?
判りやすい理屈だ。要注意人物扱いということ。皆、おれが突然窓から飛び降りないかどうかを心配している。ずっとそうだ。学校という施設に通うようになってからずっと。
だからおれはおれは生涯一度も席替えを体験したことがない。急に気が触れる可能性を示唆されてることはどうでもいい。何しろ正常と異常のラインというのは非常に曖昧模糊で未だおれには判別がつかない。
そんなことよりも生涯一度も席替えを体験したことがないって事の方が、悲劇的じゃないだろうか。好きな娘の隣にならないかなとか、居眠りしてても見つかりにくい席になりたいとか、そういう甘酸っぱい青春の記憶が皆無なのだ。おれはこの教室の中でたった一人だけ席替えの楽しみを知らないということになる。これが孤独ってやつ。その一つ。
断っておくが、おれはそんな風に誤解されるいわれはない。飛び降り自殺しそうってのはね。大体、頭がおかしいなんてのがまずひどい誤解だ。まあ、もしかしたらおかしいのかも知れないが、その責任をおれ自身に求められても困る。
だって子供の頃に誘拐されたのだって、おれ自身の責任じゃないだろう? その後のことだってそうだ。自分で好き好んで犯罪を犯したことなんてない。あの時もそうだったし、当然これから先だってそのつもりだ。
これまでの人生、人殺しの経験はない。予定もない。
でもおれの証言なんて、完全に信じてるやつは多分この世にいないのだ。一人も。
その証拠に、おれは今も、連続殺人事件の容疑者だ。最近起こった方の。起こったっていうか、現在進行形中のやつの。
犯人は、現在も逃亡中。恐らく現在も殺人を楽しんでいる。恐らく明日にも新しい死体が出る。
でも、おれは当然犯人じゃないので、容疑をかけられても困る。まず間違いなく犯人は頭が悪くその上思考と性癖は変態であり、そんな奴と同一視されるなんてたまったもんじゃない。第一、まだ警察にも声かけられてないのに、何で無責任に井戸端会議的な容疑をかけられるのか。
疑われる言われは、あるんだけど。
つまりそうして、実際、そういう噂が校内にあるわけだ。
とにかくこの平和で明るい教室の中でさえ、おれは信用の置けない人物としての疑いと敵意を四方八方から感じている、っていう話。主観的な孤独ということ。
でも客観的事実に反している孤独なので、つまりそんなのは嘘ってことになる。
おれはへーくん、である。正式名称は久々知兵助になる。
あんまり耳になじまない名前だ。何しろ親は別な名前で呼ぶし、友達は――小さい頃からの友達からは、へーくん、と呼ばれていたから。
この正式名称で呼ばれるようになったのは最近になってからだ。
ちなみに、へ、で始まる名前だからへーくんなのである。なんだか間抜けな響きなので、当初このあだ名を付けられた際は猛反対した。おれにも音感的な価値観は存在する。しかし、苗字を取ってくーくん、にはならなかった。今考えてみると、いくらなんでも発音しづらい。それならへーくんの方がいくらかマシだ。
そしてまた、へーくんであるためには、久々知兵助であることが必要不可欠だろう。少なくとも太郎とか二郎じゃへーくん足り得ない。だからこの名前には愛着が、ある。
そのあだ名をつけたのは、かつて、同じクソ狭い部屋に閉じ込められていた、綾部という奴だった。奴は、おれと同じ部屋に来た。今となっては終わってしまったことになっている、九年前の児童連続失踪の被害者だった。
失踪の真実は単純で、一人の変態による誘拐だった。当時小学生だった児童らを犯人宅に誘拐、ほぼ一年間の継続的な監禁暴行。
奴とおれは二人で同じ狭い部屋に閉じ込められて、同じように飢えて、同じような暴力を受けて、同じようなあだ名で呼び合った。
おれは仔細が思い出せない。そういうことになっている。楽しい思い出ではないのは本当。進んで人に話したくないのも本当。おれの記憶した支離滅裂な内容は、真偽不明のまま追求を免れた。
被害者児童らの強烈なトラウマを弄り回しても、理路整然の真実は出て来なかったから。犯人らの死亡で一件落着、それ以上の追求はドクターストップ。そしておれは今も病院通い。
作品名:嘘つきへーくんと壊れた×× 『真実の証明は嘘』 作家名:浦門壮一