嘘つきへーくんと壊れた×× 『真実の証明は嘘』
「嫌なことを思い出させて悪かったよ。別に綾部に合うために戻ってきたわけじゃない」
矛盾した。さっき「会いたかった」なんて言った気がする。
彼女は訝しげにおれを睨み上げた。発言の矛盾を抜け目なく怪しんだ。無言で。何を問われたわけじゃないけど、当然の疑問だ。でも答える必要はなかった。
チャイムが鳴った。もう行くぞ、と尾浜が声をかてきた。素晴らしいタイミングだった。動き出した廊下のどさくさに紛れて、そのまま立ち去った。
その日からおれは彼女をストーキングしてみることにした。情報はいくらあっても構わない。
そうして考えてみると、これは全く不用意な行動だった。思わず彼女に話しかけたことだ。引けない理由を自分で作ってしまった。
おれにも当然、個人的な感情ってものはある。
□七、猟奇的な彼女と僕の
僕は暗い部屋が好きだ。暗い部屋でじっと座っている。夜が来るのを待っている。ずっと長い間、それの繰り返しだ。
明るい光はあまり好きじゃない。なぜならそれはいつも僕を裏切るからだ。
二回。裏切られた。二回も。同じ光に裏切られた。同じように。同じ人間に。違う場所に、違う傷が、二つできた。
その点この暗闇は快適だ。
ここにはあーちゃんがいる。
あーちゃんは暗い部屋のなかで、僕の隣に座り、手を握る。
あーちゃんの手のひらの弱い力と暖かさが好きだ。
あーちゃんは裏切らない。
あーちゃんはずっとこの部屋にいるわけではないけど、でもまた戻ってくる。
裏切らないと知っているだけで嬉しい。僕はあーちゃんの肌の暖かさだけで充分だ。他の光を二度と望んだりしない。
しかしながら、あーちゃんにとってはそれでは不十分らしい。
いつかここから出られるよ、と。
一緒に逃げよう、と。
言う。
でもどうしよう、ここから出て、どうしよう?
どうしよう、あいつがいたら、どうしよう?
裏切ったあいつが、あいつが、また僕の光になったら、どうしよう?
僕は息を潜めて、閉めきった黒い窓の隙間から入ってくる光を睨んでいる。
翌日の夜のニュースで、幼女の右足と毛髪が、その子が生前通っていた小学校の校庭で発見された、と報道があった。
第一発見者は近所の高校生だった。深夜田畑の周辺をバイクで走り回り、近所の小中高の校庭にに集合するという、今ひとつ暴走族になりきれない若者たちの集団のようだ。
真っ暗なだだ広い運動場の片隅に乗り込んで、ヘッドライトの先にそんなのが転がってるのを発見したら、嫌だろうなと思う。とても嫌だろうなと思う。
「災難だね」
テレビを見ながら、なんとなく呟いた。
「ん」
後ろから、あーちゃんの声。台所の換気扇が回る音。じゅうじゅうと油の煮える音。肉の焼ける匂い。吐きそう。
「どうかしました?」
「テレビ」
ソファに全身を沈めてテレビを指さすと、台所からあーちゃんが出てきた。足音が聞こえる。
「面白いですか?」
あーちゃんはおれの横に腰を下ろした。制服の上に白いエプロン。手に、フライパンとフライ返しを持ったままで。
まだじゅうじゅう言っている。現在進行形で肉が焼けている。油がどろどろと溶け出している。獣臭い煙が上がっている。
これはお店で買ってきたやつで、あのあれをこうしたやつじゃない……よね?
「あーちゃん」
「なんですか」
彼女は、焼けたフライパンをテーブルの上に無造作に置いた。ガラス製のテーブルはカチンと耳を砕くような音を鳴らした。割れるんじゃないのか?
「あーちゃん」
もう一度、彼女の不正確な名前を呼んだ。
この名前を呼ぶたびに、あの頃の薄暗い思い出が記憶から溢れでてくるような気がする。
「へーくん」
あーちゃんが、おれの不正確な名前を呼んだ。
そしてこの名前を聞く度に、やっぱり同じように気分が悪くなる。世界の全てからおよそ千回ずつ打ちのめされたような感じの、あの気分だ。
それでもまだおれはこの名前を捨て切れない。
あーちゃんが、その大きな二つの目で、おれをのぞき込んでいる。
おれは、その体液に濡れた目の、電灯の写り込んだ光をのぞき返した。
お互いの正確でない名前を呼び合って、そして見つめ合った。まるで恋人同士のように。
彼女の薄く開いた唇の隙間から生暖かい酸素が吐き出されている。
頬を赤らめた。幸せそうだ。彼女は。本当かな。
言葉が出ない。
見つめ合っている。彼女の体温がそのまま伝わってくるような距離で、でも、おれの手は、決して彼女の触れないようにと緊張している。ソファの柔肌に両手をめり込ませて、ほんの数センチの最短距離を踏み切れない。
本当に彼女は幸せなんだろうか?
今、こうして見つめ合っていて。君は笑っているけど。
頭の中がごちゃごちゃしている。
あーちゃんが、じっとこっちを見ている。
まだフライパンから肉の焼ける音が聞こえる。弱く油の跳ねる音。換気扇が回っている。やかましい。騒音。虫でも引っかかっているのか。油の臭い。テレビはもう次のニュースに移っている。男性アナウンサーのテンションの高い声。子供らの歓声。場面が切り替わる。その都度、とりどりの色が黒いソファに写り込んでいる。ソファの傍らに彼女の通学カバンが放置されている。クリーム色のセーラー服。藍色のスカート。詰まった肉。エプロンに油の染み。手に汗が滲む。皮のソファの上を濡らして滑る。滑る手がソファの上にめり込む。その一端を爪を立てて握りつぶしている。賑やかな……騒音が……眩しい……色が……吹き出した……汗が……目の前の……肌色の……生きた……臭いの……。
おれは彼女は不幸だと思う。
「あーちゃん」
三度目。
「はい」
「目」
「はい」
両目を閉じた。
唇を少し開いている。
開いた隙間から呼吸が出入りしている。
おれは彼女は不幸だと思う。おれもそう。本当の所の気持ち、を疑っている。自分のことも、他人のことも。
言語化不可能な脳の内側にさえ嘘があると思っている。だれの脳の内側も不正確だと思っている。
おれはそう。だから、彼女もそう。不幸なことに。
「あーちゃん、目を閉じたまま答えてね」
彼女が目を閉じた時、彼女は彼女の前にいる男が誰だか正しく認識することはできない。誰もそう。箱の中の猫は青酸ガスで死んだのかどうか観測されない。
誰にも観測されない時、おれは誰? それを決めるのは誰だ?
「あれは、どうしてやったの?」
「あれ」
「さっきニュースでやってたあれ」
「足」
「そう」
「運動場の、花壇の、何も植えられてないところに、雑草の花の中に」
「どうして?」
「スコップで上からずどんと」
「は?」
「柔らかくなってました。スコップの尖った部分でずどんとしたらちぎれました」
死後一週間以内。春の気温。雨が降った。湿気の多い雑木林の土の下……。
「あーちゃん、そうじゃなくて」
「あの大きさじゃないと運べないです」
目を閉じたまま、口元だけ笑った。
これは犯罪者の顔です。間違いありません彼女はまともではありません思考が破綻しています。赤子のように自らの反社会的行動に対する罪悪感が全くなく良心が異常に欠如しています。
そして彼女は真実、慢性的な嘘つきです。
作品名:嘘つきへーくんと壊れた×× 『真実の証明は嘘』 作家名:浦門壮一