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嘘つきへーくんと壊れた×× 『真実の証明は嘘』

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 犯人は、被害者の少年に包丁を握らせた。それはどこにでも売っているような刃物だった。その刃物を見た時は、どこにでも売っていたのかどうかなんて知らなかったが、今、思い起こす記憶の中では、どこにでも売っている包丁なのだと決めつけられている。
 おれがそのずっと後に、自宅で握ったなんでもない包丁が、確かに同じ感覚だったのだ。殺せと言われて握ったあれと。これと。木の柄の。重たい薄い金属の。なるほどこれは殺せるな、と、人参だか豚肉だかなんだかを切りながら、これは使いようだな、と思った。
 その時、さあ殺せ、と言われて手渡されたんだけど。
 九歳になっていた。無知な頃だ。何も知らない頃の話だ。こんなのでいったい何ができるのかと、おれは懐疑的だった。
 おれは犯人の顔を見上げた。
 何もわからないと、言えなかった。言葉もなかった。
 この時おれの目の前には、あーちゃんと、あーちゃんの家族が、いた。
 そして、
「さあ殺せ」
 と、言われた。
 あーちゃんは母子家庭だった。母親は若かった。恐らく美人だったのだろうと思う。現在のあーちゃんの顔を見ていると、そう推測される。
 でもその時は彼女の顔は幾度なる暴行の跡で丸く膨れ上がり、どこに口鼻目玉があるのかさえわからなかった。
 彼女はほとんどなにも身に纏わない状態で両手両足を縛られ、床に転がされていた。
 手足胴のありとあらゆる所が膨れて青く、腕足の細い部分はあらぬ方向に曲がっていた。と、後の新聞紙面で読んだ。
 電灯がついていなかった。曇った昼間の光が、カーテン越しに弱々しく差し込んでいた。
 彼女は芋虫のように体をくねらせ、低いうめき声を断続的にあげていた。
 まず目にした時、これは人間なのか、とも、思った。
 しかし犯人が人間に話しかける如く日本語で話しているので、ああ、人間か、と理解した。
 また犯人は彼女のことを激しい口調で罵っていたのだが、その中に雌豚という言葉があったので、女性だろうと推測ができた。雌、が女の意味だとは知っていた。以前、あーちゃんと野良犬の話をした。
 おれは彼女が暴行されている現場を目撃していない。
 犯人がやったのだろう。
 そういうことになっている。結局なんの証拠も残っていない。

 いつもの狭い部屋から急に引っ張りだされ、地上へ向かう階段を犯人に手を引かれながら登った。数十秒の間。
 考えた。これはチャンスだと。何度目かの。
 薄暗いリビングに連れ出された。いつものように。
 そこにあーちゃんと、その、あーちゃんの家族が、既に準備されていた。
 あーちゃんの横に、重たそうな大きなフライパンが落ちていた。何か固いものを何度も殴打したようで、いくらかひしゃげていた。血がところどころこびりついていた。この犯人の手形指紋が血痕のインクでべったりと張り付いた凶器は、事件が明るみに出た後も、ついぞ発見されることはなかった。
 そのあーちゃん自身はフローリングの床にへたりこんで、すぐ目の前の瀕死の母親ではなく、壁を呆然と見つめていた。壁には犯人と犯人の家族の写真が貼ってあった。この犯人は天涯孤独で独身である。
 そして犯人はあーちゃんの母親を罵倒しながら二、三回、足蹴にし、台所へ駆け込んで、包丁を持ってきた。その数秒間、おれはあーちゃんを見ていた。犯人がおれから手を離したにもかかわらず、逃げなかった。おれも彼女も。
 まだ、と思っていた。
 すぐに逃げ切れると思わなかった。
 犯人は、持ってきた包丁を、おれの手に握らせた。
「さあ殺せ」
 と、低い声で言った。あーちゃんの母親のうめき声と同じぐらいの音程だった。
 おれは犯人の顔を見上げた。
 どんな顔だったのか、思い出せない。知っている顔だが。現在のおれにとって、こいつほどどうでもいい人間はいない。もう死んでいる。
 まあ、その時は、死んじゃいなかったので、どうでもいい人間ではなかった。従って、色々言いたいことがあったが、言葉がなかった。こいつと話が通じると思っていなかった。あらゆる意味で。
 その時、おれの考えていたのは三つ。
 これで、殺せるのか、と。
 これが、新しい遊びか、と。
 それから、殺さずに切り抜けるにはどうしたらいいか、と。
 おれは全く自分のことしか考えていない。この頃からずっとそうだ。
 犯人は動き出さないおれにものの数秒でしびれを切らし、包丁を握らせた手を、その上から掴んだ。体温の高い手のひらが、妙に優しく包み込んだ。こんなに滑稽なことはない。腹の中に耐え難いざわざわした感情が湧いていた。笑いを堪えるのに必死だった。訳もなく? 訳も判らず。
 今ならその可笑しさも説明できるけど。
「どうして」
 と、犯人は優しく耳元で囁いた。
「どうしてできないの?」
 と、優しく言う。
 おれはまだ犯人の顔を見上げていた。相変わらず言葉が出ない。こいつのために言葉を組み立てるのが億劫だった。
「使い方が判らない? 教えたはずでしょ? 痛くすればいいでしょ? こうするの」
 と、優しい声で言った。その意見を理解するよりも前に、左手の真ん中を、激しい熱さが貫いた。
 あ、と思った。少し血が飛び散った。痛くはなかった。熱かった。
 右手に握らされた包丁の先が、おれの左手の甲を貫いていた。犯人の手の平の内側の、痺れる程の強さで握られた、蒼白な左手の、内側の凶器が。
 耳をつんざくような幼い叫び声が鳴り響いた。
 おれじゃない。叫ぶほどは痛くはなかった。何より、そんな大きな声を出す能力はなかった。生まれてからこの時まで、そういう経験がなかった。考えてみれば、現在に至ってもそうだ。
 犯人は、血走った目をおれから背けた。悲鳴の方向を探した。
 おれは右手を押さえてうずくまった。痛くはない。ただ、痛い、と覚えたての単語を呻いた。嘘だった。これで犯人が興味をなくすだろうと思ったのだ。
 ばたばたと足音を立てて、犯人はリビングを走りだした。けたたましい音を立てて、扉を開ける。廊下を走り回る。大人の足音。子供の足音。逃げる。額を床に貼り付けて、その足音を聞いている。
 あーちゃんの母親が、膨れた肉の切れ目から黒い目でおれを見ていた。同じ高さで視線が泳いでいた。だから目が合った。
 憎悪の篭った色をしていた。
 彼女の子供は、殺人鬼に追い掛け回されている。小さな手足で家中を逃げ回っている。足音が聞こえる。
 母親は憎悪の篭った目でおれを見ていた。
 今だからそう思うのだろう。本当の所なんてわからない。彼女はこの後間もなく、意味のある言葉一つ発することなく死んだ。死因は刃渡り十五センチほど鋭利な刃物による刺殺だった。全身を十数箇所、えぐられていた。この数分後の出来事だ。だから彼女が、おれについて何を知っていたのか、判らないのだ。
 ただおれは、この母親から憎まれて当然だろうと思っている。
 おれは地面に落とした包丁を拾おうとした。迷っていた。あーちゃんの足音が聞こえた。
 包丁の柄に指が触れた。
 迷っていた。
 これを何に使おうか?

 これはおれの人生の上で最大の失敗だった。やり直すならこの瞬間からだ。