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嘘つきへーくんと壊れた×× 『真実の証明は嘘』

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 暗い室内のとても短いその距離を、泥棒のように足音を殺して近付く。起こしてももちろん問題はないんだけど、でも疲れてるってあーちゃんが言ってたのが本当なら、とか気を使っていた。いや、違うな。勇気が出ないんだ。
 だから天井からぶら下がる蛍光灯も点けずにいた。その代わりに懐中電灯。強弱のスイッチの付いたオレンジ色の弱々しい灯り。
 弱のスイッチのを押して、少年の顔を照らした。
 痩せ細った青白い顔を。
 ああ、こんな……こんな風な顔色の、衰弱した子供の顔は、見覚えがあるんだ。怖気と吐気と……それから、信じられないことだけど、僅かな郷愁を、少年の体から嗅ぎ取った。この子の境遇と、自分の過去を重ね合わせた上で。信じられない。自分という存在に、そんな感情があってはいけない筈なのに。
 じっと少年の顔を覗き込んでいた。
 声を掛けて、起こさないといけない。
 そういう理性的な気持ちと、自分の中をグルグルと滾り回る感情がぶつかり合っていた。だから動けない。
 どの位そうしていたか判らない。
 家の外をトラックが通り過ぎる音が聞こえた。はっとして、おれは少年から目を逸らした。多分トラックは朝から何台も通り過ぎていたんだろうけど……。
「笹山くん、笹山兵太夫くん」
 小声で名前を読んだ。
 少年はぴくりと身じろぎし、眩しくもないのに眩しそうに両目を右の腕で覆った。
「朝?」
 小さな声で彼は言った。
「まだ早朝だよ。起きれる?」
「あっ」
 短く叫び、少年は飛び上がるように上体を起こした。目をギョロギョロと光らせ、首を左右に振って、忙しなく周囲を見回す。
 やがて暗闇の中でおれと目があった。
 おれの手にした懐中電灯は、少年の血走った目と、額から滲む脂汗をオレンジ色に照らしていた。
 おれの顔をじっと見つめたまま、少年は肩で激しく呼吸を繰り返し、喘ぐような弱い声を喉から捻り出していた。
「大丈夫?」
 言って、彼が落ち着くのを待つ。
 大きな動作で少年は唾液を飲み込んで、そして次第に呼吸を落ち着けていった。
「大丈夫、大丈夫です」
 自分に言い聞かせるかのように繰り返したのは、声変わり前の高い声だった。
「気分が悪いなら、寝てていいよ」
「いえ、大丈夫です。寝ぼけて……少し混乱していただけで……」
 落ち着きを取り戻しつつある少年は、その年齢に不相応なしっかりとした喋り方をしていた。
「君は、笹山兵太夫くんでいいのかな」
「そうです。あの、あなたは」
「おれは」少し、迷ったけど「へーくん、でいいよ」
「へーくんさん」
「さんはいらないよ」
「名前じゃなくて……あなたがどういった立場の人間なのか」
「あ、そっか。えっとね……おれは、なんだろうね? 一般市民かな」
「はあ」
 不信顔。
 一応、自分としては冗談を言っているつもり。
 ていうかおれの立場って何だっけ。
「善意の他人」
 と、それでしかないのかな、と思った。
「全然話が見えて来ないです」
 まだ一層不信顔。緊張は、解れてきてるかな。
「あれ?」
 その時やっと気がついたんだけど、少年の服装が昨日の夕方に見たのと変わっていた。
 服装だけじゃないな。顔とか、頭とかが違う。例えば髪は垢でベタベタになっていた気がしたんだけど、今はそんなことはない。きちんと洗剤で洗われたみたいな、サラサラヘアーになっている。
 よくよく考えてみれば、あの不快な垢の匂いが消えていた。
 真っ先に気がついて然るべきことかと思うんだけど、おれはそんなに冷静じゃなかったんだろうか。
「なんですか?」
「いや、きれいになってると思った。髪とか」
「昨日の、夜中にお風呂で洗ってもらいました」
「あーちゃんに?」
 少年は首を傾げた。
 だってそれが出来るのはこの家にはおれの他には彼女しかいないじゃん。
「綾部のお姉さんは、そんな名前なんですか?」
「だって、あ、で始まる名前だから」
「へーくんとかあーちゃんとか、大人なのに子供みたいなあだ名で呼び合うんですね」
 ちょっと小生意気に笑いながら、少年は言った。
 もうかなり落ち着いているみたいだ。良かった。
「大人って程じゃないよ。おれなんかまだ今年で十八歳だし」
「充分、大人だと思うんですけど」
「小学生から見たら、そうなのかな」
 ほとんど独り言みたいになった。少年は反応出来ずに微妙なしかめっ面で首を傾げる。
「おれは、あーちゃんと一緒にこの家に住んでるんだ」
「付き合ってるんですか?」
「え? なに? あーちゃんと?」
「はい」
「ええと……うん、どうかな、ちょっと判らないよ」
「同棲してるんですよね」
 小学生って、同棲なんて言葉ちゃんと判って言ってるんだろうか。自分が小学生の頃ってどうだったっけ、思い出せない。
「小学校の頃からの友達なんだ。今、おれは家出中で、匿ってもらってる。それだけ」
「つまり、他人?」
「うん」
「僕を、どうするんですか」
「どうしようか。取り敢えず警察か……」
「警察には行きません」
 おれの言葉を遮って、少年は怒ったように鋭く言い放った。
 オレンジの灯りの中に、険しい黒い目と怒った眉毛が照らされている。
 おれは返答に詰まった。
「僕は、僕は助かりました。僕だけです。そんなの……。僕は……」
 苦しむように少年の奥歯が戦慄き、そこから搾り出された声が強く揺れていた。
 それは怒りに震えていた。
「僕は」と、強く主体を強調した。
「僕は、妹の仇を取ってやる」
 暗い暗い決意を吐き出して、それから彼は口を噤んだ。
 有無を言わせない固い顔。
 お前に話すことはもう無いと……少なくとも今は、もう何も言うことが出来ないと……そう語っていた。
 少年の感情は、判るようで、判らない。
 身内の死と言うものがどんな感情を起こさせるのか。親しい誰かが、目の前で無残に殺された時に、何を感じるのか。
 あの時は、死んだのは犯人とあーちゃんの母親だけだった。
 少年とおれは、似通った境遇にあると思っていたけど。決定的に違うんだ。
 もしもあの時、へーくんがあーちゃんを庇わなかったら、あーちゃん、綾部は死んでいたのかな? そんなふうに親しい友達が死んだとして、そしたらおれはどうなっていたんだろう。

 メール送信。完了。削除。彼の生存を知るのは、この世に五人になった。
 メールを送るだけなのに、なんとなく緊張した。携帯を握る手に汗が滲んでいる。
 横から画面を覗き込んでいた兵太夫が、暗い部屋の中で不敵に笑った。
「物凄く、興奮します」
「そう? おれは結構きついよ。緊張する……」
「今すぐあいつと、どうってことじゃないですよね。そんなにビビらなくも、いいじゃないですか」
 声を上げてケラケラ笑う。あいつ、ってのは犯人のことだ。
「うーん、そうなんだけどさ」
 おれは笑い切れずに天井を見上げた。薄らボンヤリとした闇の中に、天井板の木目が見える。
 相変わらず電気は点けていない。その上、雨戸は閉められている。外が暗くなると、雨戸の隙間から光が漏れるかもしれないから、部屋の電灯を点けることは禁じられているのだ。
 兵太夫くんはその他にもいろいろな不自由を強いられている。