嘘つきへーくんと壊れた×× 『真実の証明は嘘』
そんなことをしていると、せっかく追いつきかけていたあーちゃんが、遠くなる。追いつけない。曲がり角。見えなくなる。
息が詰まった。
「綾部!」
おれは思わず、彼女の名前を叫んでいた。
ぎょっとしたように、あーちゃんが振り返る。ここからは結構な距離がある。全く無表情な彼女の顔が、自分の名前を呼んだ人物を探して、視線を泳がせた。
「綾部」
歩いている他人の目が、少し、こちらを見ている。あんまり目立ちたくないと思っているんだけど、しかしもうやっちゃった後だから、仕方がない。もう一度、名前を呼んだ。
あーちゃんは、不思議そうにおれを見ている。いや、完全に無表情なんだけど、立ち止まってじっとこちらを見ているので、不思議に思われているんじゃないかな、と思う。
「おれだよ。その……覚えてない?」
普通に話して聞こえる距離まで近づいて、おれは息も絶え絶えに改めて声をかけた。心臓が早く動きすぎて呼吸ができない。精神的なもの。緊張していた。
「あ、綾部……君」
二回苗字を呼び捨てにした。小学校の頃なら問題なかった。急に不安になって、取ってつけたように敬称をつけた。
対してあーちゃんは、やはり無表情のままだった。いや、無表情どころか、ちょっと冷めたような目。
「なんですか?」
きれいな赤い唇で、突き放したようにそう言うのだ。
突き放してるのか、それともおれが勝手に突き放されたと思ってるだけなのか。十年ぶりなんだから、顔なんて覚えてなくったって無理はないのに。変に希望を持っている。
「あ、おれは」
名乗って、いいんだろうか。おれの名前。
もしもの仮定。
もしも彼女が、自分があーちゃんだった頃のことを全部捨て去ってしまっていたとしたら。あり得ない話じゃない。おれとあーちゃんが紛れもなく友達だったあの頃っていうのは、誘拐事件の被害者だった時期と被る。何もかもが触れられたくない過去、忘れたいトラウマ、そうなって当たり前の話。
そして今、彼女はどうやら健康に健全に女子高生的な青春を謳歌している……と、見えなくもない。表向き。
そこにおれなんかが土足で踏み込んでいいのかしら、と、それも当たり前の不安。
でもほんとに無事なのかなあ、とそれを確認したい気持ちもあるわけだ。ちゃんと話をして。
云々と迷っていると、彼女は眉を顰めてそのまま立ち去ってしまおうとした。知らない男に話しかけられた時の、普通の反応だった。
しまった、と思う。つなぎとめたい。
寂しい、と思った。
「あーちゃん」
咄嗟に、声に出た。
馴れ馴れしくもおれはそんな風に、呼びかけてしまった。まだ呼び捨ての方がマシ。
あーちゃんの顔が、二回の瞬きの後に驚愕に歪んだ。
間違えた。間違えたんだ。おれがそんな、そんな風に呼ぶ資格なんて、ないのに。
「へーくん」
「え?」
驚いた。彼女が、何を唐突に叫びだしたのか、すぐには判らなかった。
へーくん、だって?
「へーくん! へーくん! へーくん!」
叫んだ!
無表情の顔は、前触れもなく、その両目から涙を流し始めた。
ぽろぽろとこぼれていく涙を拭いもせず、あーちゃんは棒立ちのままで、大きな声で狂ったようにその名前を呼んでいる。
その顔もだんだんと崩れていく。最後には、ひどく叱られた子供のような、痛ましい泣き顔に変わっていった。
へーくんって、あの頃の呼び方!
「へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん」
泣きながら、ガタガタ震えながら、破損したオーディオデータみたいに、あーちゃんはひたすら同じ部分を繰り返している。
データの保存に失敗しました、とか。ああ、そうだ。そんな感じ。そうだ、当たり前だ。
彼女も破綻していたんだ。それも当たり前の話だった。
「へーくん」
と、彼女は繰り返す。あーちゃんの頭の中、それとおれの頭の中、に、へーくん、が像を結んでいく、それを追いかけるような、反芻。
多分、おれが推測していることは正しい。あーちゃんの頭の中に起こっていることが、わかる。破綻してぐちゃぐちゃになっていた記憶を、一生懸命に組み立てなおしてる。
身に覚えのある記憶のパズル。
「へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん、へーくん……」
へーくんが一人、へーくんが二人、へーくんが三人……。記憶の記録に残っていた破片を数えている。いっこいっこが特定の少年を形成する。
現実的に、へーくんってこの世に一人しか、いないけど。
あーちゃんの赤茶色の虹彩が溢れ出る体液に沈んで輪郭を曖昧にする。
さっきまでの涼しく冷淡な表情が見る影もなく崩れている。ごく普通の平常で凡庸な顔つきから。非常に間違いなく以上な狼狽、錯乱の様相。
どうしておれは、おれ以外はみんな無事だと思っていたんだろう。命が助かったってのは聞いてたけど、そうだ、頭が助かったとは誰も一言も言ってくれなかった。
もしかしたら、もしかしたら、おれが一番、まともなの?
変なものを見る目で、赤の他人がこっちを見ながら通りすぎていく。
この壊れたあーちゃんを、どうしたらいいって。冴えたやり方はたった一つしかない。
「あーちゃん、久しぶり」
そういえば、おれは本当は全く最初から、そのつもりだった。おれは、へーくん、だから。そうなんだろう。
だから彼女に向かって両手を広げて、
「おいで」
と、そんな嘘を吐いた。
「へーくん!」
糸が切れたように、あーちゃんが蹌踉めいて、倒れこんでくる。軽くて温かい、懐かしい、感じ。懐かしいんだと――思ってみる。嘘。
「あーちゃん、大丈夫?」
「うん、うん。ねえ、へーくん」
「うん」
「どこにいたんですか」
「ちょっと入院してて」
「心配しました」
「ごめんな」
「許しませんから」
「うん。判ってるよ」
「もうどこにも行かないで下さい」
「そうだな」
おれは本当にどうしようもない嘘つきだと思う。ここまで自分の足で歩いてきた上で、そう思う。
泣きながら笑うあーちゃんはきれいだ。でもそれはおれの嘘に基づいた美しさなのだ。
おれの嘘が崩れたら、破綻すると判っている。
したがっておれは今後も継続的に嘘つきになる。だから強い罪悪感を抱いている。
しかし同時に、そろそろ通行人の目が痛い、とか冷静に考えている部分もあったりする。自分で言うのもなんだけど、こういう二面性も嘘つきという人格の証明。
「あーちゃん」
「はい」
「家、帰ろうか」
「家?」
きょとん、と泣き止んだ目であーちゃんがおれを見上げた。
これ以上、平和な夕暮れの公道で、キレた少女Aと不審人物少年のラブシーンを繰り広げるわけにはいかないのだ。
「私の家?」
「そう。一緒に」
言いかけて、先をこされた。
「住みますか?」
「え」
「同棲」
作品名:嘘つきへーくんと壊れた×× 『真実の証明は嘘』 作家名:浦門壮一