嘘つきへーくんと壊れた×× 『真実の証明は嘘』
屋上のフェンスに近づき、ショッピングセンターの広い駐車場を見下ろした。バス停が見える。ちょうど、バスが走って近づいてきていた。あれに乗っているだろうか、と降りてくる人々を見つめた。
メール。
遅れている。着替えるのに時間がかかった。との内容。
降りてくる人間の中に、奴らの姿はない。子供連れの主婦、老人の団体、制服の少年。それだけだ。
降りた際に見た時刻表を思い出そうとした。前後数本の時間は確認していた。自家用車を持たない人間なら、そのタイミングでしかここに来れないのが判っていたからだ。
つけられているかもしれないと思っていた。殺人鬼に命を狙われている。あの警察が父親におれの居場所を知らせたせいで、かなり動き難くなってしまった。
だが、バスから降りた人間の中に、それの姿は無かった。
改めて屋上のカフェに振り返る。客は増えていない。女性客ばかりだ。あの不快な男はいない。
次のバスは二十数分後だ。それまでは、絶対に父親もおれの待ち人も来ない。
一先ず席を取っておくべきだ。屋上の入り口の見える位置、それから他の客からある程度離れて。
カフェの空席に視線を移した時、屋上に客が一人増えた。
ブレザー姿の少年が、荒々しく屋上へのドアを突き飛ばした。ガラス張りの扉が、床に設置されたストッパーに跳ね返って、身を捩りながらバアンと甲高い音を立てる。
主婦の一部が非難がましく振り返った。
あの黒いシルエットは、おれの通っている高校の制服だ。学生帽のようなものを被り、ほとんど真下を見ながら歩いている。いや、走っている。
そう、走っていた。怒っているような荒々しい歩調で、おれの目の前へズイと近づき、顔を上げた。
細い体の少年だった。よく見ると、制服は大きすぎるようで裾や肩幅が余っていた。
そしておれを見上げた顔は、綾部だった。
「あ」と、おれは短く声を上げ、後退った。背中にフェンスが当り、揺れた。
「綾部」
と、おれは続けて二言目を発した。
その顔に並んだ二つの目玉に見上げられた時、腹の奥の所から、何だか冷たいものが込み上げてきて、慌てて生唾を飲み込んだ。
自分が殺した相手の幽霊に出会った時、殺人犯は、誰しも今のおれのような焦りを覚えるのだろうか?
そんなわけがない!
「嘘つき」
と、少年は吐き捨てるように言った。
そしてその深くかぶった帽子を取り、おれの眼前へ投げつけた。
黒い帽子の影から、長い髪が風に揺れるのが目に映った。明るい茶色の、柔らかな少女の髪。
察しの良い彼女が、先手を打ってここに現れるのを考えられなかった訳じゃなない。負け犬の遠吠えのようだけど。
こんな変装をしてまで?
「タカ丸から聞いたのか?」
「誰?」
「斎藤タカ丸。知ってるだろ、一緒に住んでるんだから」
「あれはへーくんです」
「そう言うと思った」
別に、彼女と同棲している斎藤タカ丸のあだ名がへーくんだって、不都合はない。斎藤タカ丸は斎藤タカ丸でしかないが。
何度も言うけど……あーちゃんは、自分をあーちゃんと呼ぶ人間のことを、へーくんだと思い込んでいるだけの話だ。そういうことになっているらしいと、タカ丸から聞いていた。
だからおれは彼女のことをあーちゃんと呼ばない。へーくんが増殖したら、彼女は困ってしまうだろう? 彼女の穏やかな精神状態を気遣ってのことだ。それは嘘だけど。
「あのへーくんの本名は、斎藤タカ丸って言うんだよ」
「知っています。幼馴染なんだし、そのくらい覚えています。だから?」
「へーくん、ってのは、兵助くんのことだろう。へいすけ、へーくん、斎藤、タカ丸。おかしいだろ?」
「そうかもしれませんね。でも、タカ丸さんがへーくんでも、私は問題ないと思います、別に」
確かに、人間は戸籍登録された正式名称で呼び合わなければならない、といった法律があるわけでもないし。彼女がそれに納得しているなら、構わないとも思う。
もはやそれを返して欲しいとは考えていない。赤の他人に奪われたって。
「でも、困ったな。おれも久々知兵助なんだ」
だから誂うつもりで言った。後をつけられた仕返しに、少し困らせてやろうと思って、判り切った話を。
だが、
「いいえ、違います」
それを正確に否定し、首を振った。
彼女はごく短い瞬間、目を閉じた。そしてすぐに、火の点いたような目を、こちらに向けた。この火はどうやら怒りから来るものらしい。
今度は、頭の真上から温く重たい感情が、全身に流れ落ちるのを感じた。
「あなたは、久々知兵助じゃない」
燃える瞳で、さながら糾弾を、少女の喉が、至近距離の法廷で、正確無比の証拠をその手に持って。
「学校でも、病院でも、警察でも、どこでも、嘘の名前を名乗っていますけど。あなたは嘘つきです。あなたは久々知兵助なんかじゃない。そうでしょう、真」
「その名前で呼ぶな!」
彼女の唇が、Sの子音に細く釣り上げられ、開いた隙間から吐息混じりのI。すぐに唇を閉じ、飲み込むような、N。おれの嫌悪へ並び繋がる音節の二つ。
それを遮り、叫んだ。
同時に、死にたくなった。衝動的に。絶望的な怒りのために。
短絡的だ。笑える程に。
ふと、ある考えが浮かんで、背中に寄りかかるフェンスの冷たさを感じ取った。
断っておくけど、おれは別に、彼女に嘘と詰め寄られたから死にたくなったわけじゃない。
おれが久々知兵助じゃないことが、許せないんだ!
あの糞野郎、後から現れて我が物顔で久々知兵助と名称を使い、返そうともしない、あの糞野郎のことだ!
「信じられない」
と、彼女は吐き捨てた。
益々死にたくなる。少なくともそれを行わなくてはいけない。そんな考えが浮かんだから。
今、死んでみせるべきだ。
誰にも信じられないほどの怒りを以て。
「どうして、あなたは久々知兵助と、殺人鬼の名前を騙って」
「どうして?」
疑問詞を復唱。おれは声に出さずに笑っていた。論うように。
君がその理由を理解できないとしても、別に知ったことじゃない。
久々知兵助という名前の殺人鬼がこの世に存在するのが間違っている。だっておれの方が久々知兵助なんだから。
それが真実であるように、証明してやる。
屋上のフェンスは投身自殺を阻むほどは高くない。簡単に飛び越えて、彼女とは鉄の柵を差し向かいに、距離が開く。
「何をしようと?」
「ちょっと死にたくなって」
えっ、と彼女の唇から可憐な感嘆詞が漏れた。
アーモンド形に切り取られた瞼、白い眼球に墨を落としたような虹彩。丸く見開かれ、驚愕の色に染まった。
驚くようなことだろうか?
「待って!」
と、彼女は手を伸ばした。おれはその手に触れないように、フェンスの縁を片手で押して、少しばかり離れた地面に向かって、背中から倒れた。
こんな時、大抵の人間は、意識が平常時よりももっと覚醒し、周囲がスローモーションのように見えると言う。
中に浮かぶ身体の、脳髄を中心とした、三百六十度全天球のパノラマ映像が、色鮮やかに眼球に写り込んだ。
作品名:嘘つきへーくんと壊れた×× 『真実の証明は嘘』 作家名:浦門壮一