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嘘つきへーくんと壊れた×× 『真実の証明は嘘』

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「おかしいと思ったんだ。こんな夜中に出ていくから」
 踏みしめた土と草が、湿った音を立てた。
「こ」
 彼女の形の良い唇が、血色の良い小さな唇が、戦慄く。
「こないで、下さい」
 搾り出した声で、彼女はおれを強く拒絶した。しかしそんなことを気にするようじゃ、ストーカーの名折れ。
 構いもせずに、おれはもう一歩近づいた。
 あーちゃんは一歩後退り。穴の淵まであと十センチ。落ちるかな?
「近づかないで下さい」
「どうして」
「見ないで」
「何を」
「は、は、はは」
 喘ぐ呼吸。震える声。舌がうまく回らないらしい。そして顔面に並ぶ興奮して血走った眼球二つ。ゼリー体の臓物を植えこむための皮膚の切れ目が、生々しく赤い。あーちゃんの青白い肌に、そこだけがなんだかグロテスクな部品。似合わないな。
「は、話、し、かけないで、下さい」
 冷たいことを言うのだが、おれは少し愉快な気分になってきた。
 話しかけないでって。つい数時間前に、へーくんに対してあんなに甘えた態度を取って見せた癖に。
 彼女は今尚白を切るつもりだ。
 で、なければ。
 故意でないとするならば。
 おれが認識できていない、という可能性。
 この一週間、そう、おれがこの町に戻ってきて一週間、おれは再開した彼女を具に観察していた。
 おれに必要なのは情報、経験、感覚、思考、諸々のそれらだと以前の主治医は言った。なるほど確かにその通りで、現状の正常な回復のための第一歩は情報収集で間違いなかった。
 おれは過去の精算と未来の形成のために、彼女を観察した。
 短期間ながらも得られた情報は、彼女の現在の性格・家族構成・経済状況・対人関係・病状等。
 これは病状として数えることができるだろうか。
 あーちゃんは久々知兵助を認識できない。
 いや、恐らく久々知兵助は認識できている。彼女は校内ではおれのことを久々知先輩と呼ぶから。
 が、久々知兵助をへーくんと認識できない。
 へーくんって奴が現在の彼女の中でどんな存在なのか正確に知る方法なんてないが、しかし今日の放課後の件から推測すると、そいつはあーちゃんの信頼を得ているようだ。
 過去の事件で精神的に壊れてしまった、君が、世界から切り離され、全てへの興味を失って、無感情になった君が、例外的に信頼して甘えて愛している、へーくん。
 子供の頃のおれとあーちゃんの関係そのままだ。で、へーくんってのはおれの子供の頃のあだ名。要するに、久々知兵助、へーくん、イコール、おれ。
 愉快に思う気持ちも判るだろう?
 今の彼女はへーくんが判らない。久々知兵助が判っても、へーくんとの等式が繋がらない。あるいはへーくんが判っても、久々知兵助が判らない、と、つまりこういう形式になっている。
 それはおれの顔も名前を忘れたのか、そもそも知らなかったのか、頭の中から存在そのものが消えているのか。
 へーくんを認識させるスイッチがあるみたいだったけど。それを押せば、数時間前に見たように、おれは「へーくん」となり、彼女は「へーくんを愛するあーちゃん」となるだろう。
 でも今は、おれは善意の他人なので、へーくんにならない。
「不快な声で話しかけないで」
 それは流石に傷つく。
 もう一歩、距離を詰める。
 彼女が後退り。穴の淵ギリギリ。別に落ちなくてもいい。
 おれが手にした懐中電灯の光は、ここに来てようやく彼女の頬を通りすぎて、背後を照らした。
 こうして事件は明るみに出るわけだ。
「あ」
 あーちゃんは気がついた。何が何を照らしているのか。
 開いた穴ぼこの中の、土の隙間に薄ら青白い塊。事件の重要な証拠。知らない誰かの悲劇。犯人の愛。それは肉の腐った臭いが立ち込める、人気のない真夜中の林の中にあって違和感のない物だ。
 少女だ。まだ幼い。仰向けに倒れている。青いフード付きのパーカーを着ている。ピンクのスカートを履いている。二つに結んだ長い髪が、土まみれに広がっている。顔はある。だが顔はわからない。腕がない。左足もない。
 それらしく、悲鳴を上げようかと思ったが、やめた。
「よくも、よくも見ましたね。私の穴の中。よくも」
 暗い穴の底から聞こえるような、掠れた少女の低い声。
 そして彼女は後ろ手に持っていたスコップを、片手で振りかぶった。
 認識から攻撃まで存外早い肉体のシグナル伝達。
 渾身の力を込めて、軌道はおれの脳天狙い。
 おれは反射的に後ろに飛び退いた。
 鼻先を掠める錆びた鉄の塊。湿った土と、腐肉まみれの凶器。既の所で、空振り。でも後ろの木に背中を強かにぶつけてしまった。
 狭い空間で考えもなしに犯罪者を挑発とかするもんじゃないな。背中の汚れの言い訳はどうしようか。
 しかしこの反応は少しだけ予想外。
 今後はおれも何か凶器になるものを携帯しようと思った。
「よけないで下さい」
「無理な注文だ」
「なら死んで」
 一緒じゃないか。
 あーちゃんは再びスコップを握った手に力を込める。今の一撃で刃の部分が完全に土に埋まっている。
 馬鹿力だ。何しろ、夜な夜な死体の埋まった穴を掘り返したり埋め直したりするような子だからね。
 引きぬいて、また振り回した。今度は横薙ぎ。
 どうも頭が狙われている気がする。本気で殺る気か。しかしあんまり動きは早くない。暴れ慣れてない。殺し慣れていない。人間、慣れないことはするもんじゃないな。
 しゃがんだおれの頭上を空振りして、背後の木を打ち付ける。軋む音。跳ね返っていく凶器。バランスを崩すあーちゃん。
 おれは立ち上がり様、一歩前へ。スコップを握る彼女の手を優しくつかんだ。
「痛っ!」
 バランスを崩した彼女へ、ちょっとした追撃のつもり。おれは優しくつかんだだけなので。
 それでスコップを取り落としたのは、きっと少し驚いたからだろう。多分ね。
「綾部」
 乱れもつれた髪の間から、彼女はきつい目でおれを睨み上げた。
「どうする」
「触らないで下さい!」
 パン、と小気味良い音がした。
 いや、小気味良くなんかない。よく小説なんかで、そういう表現をされているが、実際その行為を受ける側からしたら痛いだけで全然気持よくない。気持ちいいと思うなら、マゾヒストの素質がある。
 要するにつかんでない方の手で平手打ちされた。
 あーちゃんは涙目でおれを見上げ、乱れた髪を両手でかきあげていた。
 驚いたおれは彼女の手を取り落としていた。
 唇をかんで、あーちゃんが沈黙する数秒。
 涙を飲み込むように、ぎゅっと目をつむった。そして開いた両目で、またおれを睨んでから、おれの横をすり抜けるように走り抜けた。
 おれは特に引き止めずに、それを見送った。
 さっき来た方に、走って戻っていく。植物の影で、もう姿は見えない。取り残された。
 あーちゃんはちゃんと家に戻るだろうか? 目撃者は放置でいいのか?
 まあ、おれはあーちゃんを警察に突き出す気は毛頭ない。目撃証言の隠蔽という軽犯罪で、みんなが社会復帰して安全に暮らせるなら、それはそれで。上手くいくなら。
 しかし差し当たってその障害になる、その場に散乱されたままの、スコップ、懐中電灯二つ、あと死体。なんとかしようか。