D.C. ~ダ・カーポ~【同人誌サンプル】
「……!」
思考の迷路に突入しかけた香穂子の耳が、下生えを踏みしめる足音を捉えた。次第に大きくなるそれは、誰かがこの場所に近付いていることを意味する。
「先生……?」
「げげっ、マジかよっ――!?」
香穂子の呟きは、無意識に漏らした願望だ。
そんな事情など露知らず、男子生徒は慌てて立ち上がると、落ち着きのない様子で周囲を見回す。
「ううん、分からないけど……」
「……ちっ、驚かせるなよ」
この場所を知っている人間は、それほど多くないはずだ。
迫りつつある足音の主が、本当に金澤だとしたら――。
会いたい気持ちと、会いたくない気持ちが、香穂子の中でせめぎ合う。否が応でも鼓動が早まり、緊張と不安で胸が張り裂けそうだ。
微風に揺れる枝葉の隙間から、白い服がちらちらと覗く。
「――見掛けないと思ったら、ここにいたのね……」
木立の間から顔を出したのは、香穂子の予想に反して、音楽科の女子生徒であった。
透き通るような白い肌、肩の下まで伸ばした艶やかな黒髪、聡明そうな暁色の瞳……同性の香穂子でも思わず目を見張るような美少女である。リボンの色は青――やはり一年生だ。
「なんだ、美夜か」
腕を組んだ女子生徒の顔を見るなり、金澤が安堵とも皮肉とも取れるような声を出す。
砕けた口調からして、おそらく二人は知り合いなのだろう。
「美夜か……じゃないわよ。今日の個人レッスン、サボったでしょう? 武川先生、怒ってたわよ」
「あっ、やべっ……忘れてた。でも今日は、歌う気分じゃなかったしなあ……」
「またそんなこと言って……後でちゃんと先生に謝りなさいよ。私までとばっちりを受けるのは、ゴメンだわ」
美夜と呼ばれた女子生徒は、大袈裟な溜め息をついて、眉間に皺を寄せた。せっかくの美人が台無しだ。
「あら……?」
一通りまくし立てたところで、ようやく香穂子の存在に気付いたようだ。微かに細められた瞳に、憐憫の色が混じる。
「今度は普通科の子にちょっかいかけてるの? あなたってほんっと懲りないわね」
「そんなんじゃねーって! 落ち込んでたからさ、励ましてやっただけだよ」
「とか言って、強引に迫って泣かせたんでしょう? 彼女、泣いてるじゃない」
「お、俺のせいじゃねーよ」
「どうだか……」
二人二組、合計四つの目が、香穂子に向けられた。
「あ、あの……」
目の前で繰り広げられる展開に、まるでついて行けない。
とにかくこの「違和感」の正体を突き止めなければ、動きようがなかった。
「私、普通科二年二組の日野香穂子です。音楽科の一年生……ですよね?」
香穂子の言葉に、美夜が目を丸くする。
「えっ、一年生……!? 私たち三年よ」
「お前、二年なのか? ……タイの色、違うじゃん」
男子生徒もそれに追い打ちを掛けた。
一年生にしては、随分と横柄な口のきき方をすると思っていたが、上級生であればそれも納得がいく。
「いいえ、違いません。私は二年生です」
星奏学院の学年指定カラーは、一年が青、二年が赤で、三年が濃紺だ。これは普通科、音楽科ともに同じである。
「……もしかして、私たちのこと、知らないのかしら?」
美夜は口元に手を当てると、優しく香穂子に問い掛けた。
「あ……はい、すみません」
知らないものは、知らない。香穂子は素直に頷いた。
「お前、やっぱり転入生か。コンクールが終わったばっかりだってのに、俺たちを知らないわけないもんな」
「コンクール……?」
学内音楽コンクールのことを指しているのだろうか?
だとすれば、尚更、この二人の顔を参加者である香穂子が知らないはずがない。
しかし、何度見ても、思い当たる節がなかった。
「……まあいいや」
男子生徒が気怠そうに頭をかく。
「あー、面倒くせーから自己紹介しとくな。俺は三年A組の金澤紘人。で、こいつも同じA組の吉羅美夜。この前の学内コンクールで……」
その先の言葉はもう、香穂子の耳には届いていなかった。
「金澤……紘人……」
癖の強いアッシュグレーの髪、琥珀の瞳、張りと深みのある懐かしい声、そして名前――抱いていた既視感の正体が、今、はっきりと分かった。
どんな類のからくりが働いているのかは、分からない。
だが、この失礼極まりない男子生徒が、学生時代の金澤紘人本人である可能性は、極めて高いといえよう。
「う、そ……」
――限界だった。
これ以上、整理されていない情報のインプットを許容すれば、香穂子の心が保たない。
自己防衛本能が働いたのだろう。
「ちょっ、おいっ……」
香穂子の全身から力が抜けて、がっくりと頭が垂れる。手放した意識は、混濁の渦へと呑み込まれていった。
作品名:D.C. ~ダ・カーポ~【同人誌サンプル】 作家名:紫焔