あの夏、あの日、僕たちは
白石蔵ノ介はその瞬間から、無駄のない、完璧な計算を施した、ある計画を目論んでいた。
いつもは時間に大らかな(手っ取り早く言えばルーズな)千歳が、珍しく集合時間の1時間近くも前に食堂に表れた時から、白石の形の良い頭に収まった脳は、ただひとつ「その事」に対してぐるぐると回転していた。そうして白石が緻密な計算を練り上げて、事の始めにと命じた「お使い」を、千歳は案の定拒絶したのだが。
「なして俺が行かんといけんね。こういうのは大抵1番遅かったヤツが行くもんばい」
「1番遅かったヤツに行かせてしもたらその分朝食遅くなるやろ」
四天宝寺の聖書と名高い白石の辞書に「無駄」の二字は存在しない。不服そうに(実際不服なのだろう)声をあげる千歳の反応も十分計算の内で、「そら来た」と悠々反論をする。
「だ、だったら白石が…」
「自分が俺の代わりに金ちゃん起こすか?なっっっっかなか起きんで、金ちゃん。寝ぼけて拳やら足やら出してくるし。ええの?」
「う」
とにかく千歳に「お使い」に行かせる口実に、既に食堂に集まる部員たちにはそれぞれの役割を与えた。白石自身の役目はゴンタクレのスーパールーキーを起こすことだ。彼を覚醒させるのに骨が折れることは、部員全員熟知している。だからこそ、いざという時のため、という名目で、堂々と、千歳が一番に頼るだろう銀は、白石がしっかり連れていくことが出来る。無駄を嫌いパーフェクトを愛する白石は当然の如く、千歳に「お使い」を命じた時点で既に彼が甘える人間を──逃げ道を、とうに塞いでいるのだ。
予想通り口ごもる千歳。テニスや運動をしている身、怪我は慣れっこだろうが、朝っぱらから、わざわざ親切で人を起こしてあげるにもかかわらず痛い思いをするのは、誰だって嫌だろう、当然のことである。
「財前もなー、朝はいつにも増して不機嫌やし。自分、前の合宿ん時泣かされとったろ」
「な、泣いてなかろうもっ……!ちょっとびびっただけたい!」
未だ起きて来ない後輩はもう一人いたのだが、彼の元に千歳が自ら率先してひとりで行くことはない、ということも白石は熟知していた。
理由は一ヶ月前の合宿時の出来事に起因する。心地よい初夏の朝焼けの中、皆で雑魚寝した部屋の窓のすぐ下で野良猫が日向ぼっこをしているのを見つけた千歳が、テンション高く隣の布団の財前を叩き起こした時分のこと。誰より朝が早い白石は、その光景をよく覚えている。財前の、常より深く、そして多く刻まれた眉間の皺。元々の三白眼は更に据わっていて、極めつけは、
「だってあいつ先輩に向かってめちゃくちゃデカい舌打ちしたけん……!」
思わずだろう、半泣きで土下座をしていた千歳を拝めたのは、良い思い出である。
「後輩相手にびびるなや……」
「哀れやな……」
「ダサいっすわー」
「ユウくん、ここでそのモノマネは可哀想やわ」
呆れる小石川に、銀 、ユウジ、言葉と裏腹に楽しげに笑う小春と続く。
「なら、ユウジたちは……」
「あかんあかん。俺らは朝食準備がてら新婚さん夫婦漫才すんねん」
「何ねそれ」
「堪忍なあ千歳くん」
鋭い小春と、観察眼のあるユウジの二人は白石の企みをとうに察しているのだろう。否、小石川と銀も、きっと既に気付いているに違いない。諦めやーと千歳の肩を叩きつつ、苦笑いを浮かべてこちらを伺っていた。
(ほんまに察しの良え奴ばかりで助かるわ)
全国大会決勝に繋がる大事な試合の直前、「千歳のお使い」に向け四天宝寺3年レギュラー陣が一丸となる姿は、財前が見たら確実に全員纏めて「あほっすわ」と吐き捨てられること請け合いだ。
「ちゅーか自分、バイキングやでバイキング。人数分完璧な栄養値になるように、せやけど育ち盛りの男子中学生の腹を満たすよう、そんでもって何遍もテーブルと食いもん往復せんでええよう、ダイナミックかつパーフェクトかつエクスタシーにちゃっちゃと皿に盛って来れるんか?ん?」
「エクスタシーに盛るて何ね。白石、その発言きもかよ」
「喧しい」
生意気にも反抗しては見せるものの、白石の言う通り、手際良く計画通りに物事を順序立ててこなす事が苦手だということを、千歳自身良く理解しているのだろう。最終的には、しょんなかね、と、ひとつ溜息を零した。敵は遂に諦めたようである。勿論、最初からそうなるように仕向けていたことではあるが、とんとんと計画が思い通りに進むことは気持ちが良い。自然、薄く艶やかな唇が弧を描く。
そんな白石に向かって、ひらり、と長い指を持つ大きな手が差し出された。
「さっさと渡さんね、そのポカリ」
「おん、頼むで。早う行かんと、謙也が干からびてまうからな」
白石の命じた「お使い」。それは朝早くに自主トレに出た浪速のスピードスターの、水分補給である。
「というか、なして白石は謙也くんが飲み物持ってかなかったの知っとって教えてあげなかったとや」
「貴重な朝のヨガタイムやってん。ちゅーか声掛ける前に出てってもうたし」
千歳の問いに、やはり最初から用意されていた台本を読むかの如くすらすらと答えるが、それは紛うことなき事実だった。常のように数秒で洗顔と歯磨きを終え、脱色で痛んだ髪を軽く整えると、さっさと着替えて走るように部屋を出てしまったのは、謙也のほうである。当初は「まあ喉乾けばその辺に自販機でも水道でもあるやろし、8時に食堂集合て言うてるし、何とでもなるやろ」と考えていたが、ここで千歳を行かせない手はない、と、数分前の白石の脳が訴えたのが始まりだ。
「大事な試合の前に熱中症にでもなったら大変やん」
と、ひとつも心配もしていなかった自分を棚に上げ、白石による千歳の説得は続く。彼がそこまでする理由は、この場にいる者たちにとっては、言わずもがなだ。
「ほれ、」
運動部にはお馴染みの青いラベルのスポーツ飲料水を千歳に投げて寄越す。
「冷たか男たい、白石は」
「なんや、さっきっから渋りよって」
その理由も大方予想はついているが、あえて何も知らない振りをして、白石は訝しげに(見えるように)言う。
「そんなに謙也が嫌なんか」
何でもない軽口を叩くような口振りで、核心をほんの少し突いてみると、千歳の腕がぴくりと力み、掴んだペットボトルが、きし、と悲鳴を上げた。
「嫌じゃなか。」
ぽつりと呟き俯いた千歳だが、
「……嫌なわけじゃ、なかよ」
高すぎる身長のせいで、その表情は、白石に丸見えだった。
怒っているような、困っているような、悲しんでいるような、けれどほんの少し赤らんだ頬は照れているようにも見える、複雑な表情。それを目にした白石は思わず笑ってしまい、目尻を朱に染めた彼に睨まれる。常日頃無駄に大人びた彼の、年相応に尖らせた唇が、何やら文句を紡ぐより前に、少しだけ背伸びをして、自分よりも高いところにあるぼさぼさ頭をぽんぽんと叩いた。
「っちょ、白っ……」
「ほな、行ってきなさい」
「……うん」
のっそりと出ていった、長身ながらも薄い身体を、父親(というより、もはや母親)のような気持ちで見送って、白石はやれやれと息を吐いた。
「ほんっっっっま素直やないなー、あの巨神兵」
「素直やない、ちゅーか、自覚してないんと違うか、あれ」
作品名:あの夏、あの日、僕たちは 作家名:のん