あの夏、あの日、僕たちは 2
謙也はひとつも悪くはない。何もしていない。けれど千歳にとって、「親友を彷彿とさせる髪色」、ただそれだけの事が、自分の「弱さ」を自らに知らしめさせる存在となった。だからこそ、彼への印象はあまり良いものではなかったのである。
千歳が半ば白昼夢のようにほんの数ヶ月前の出来事を思い返してしまうのは、白石に命じられて謙也の元へ向かわされているからだ。心地良い温度で設定されているホテルを出た瞬間、じわじわと叫ぶような蝉の大合唱と、ぎらぎらと照りつける太陽が、容赦なく千歳を襲った。むわ、と、湿気を帯びた空気が、鼻腔から、半開きの口から、毛穴から体内に入っていく。
「暑か……」
わざわざ木陰を選んで歩いていても、数歩進んだだけで噴き出す汗。手に持っている、きんきんに冷えたペットボトルを首筋に当てると、ひやりとした感触と一緒に、汗とペットボトルの水滴で、べちゃりと肌が濡れた。汗と交じった冷たい液体が首筋を這う。ほんの少しだけ涼しくなった、ような気がする。謙也のために用意した飲み物だが、渡す時に拭けば問題はないだろう。このくそ暑い最中わざわざ届けてやるのだ、この位許されるべきだと思う。
元より色の濃い肌が更にじりじりと灼けている感覚に、千歳は溜め息を吐いた。汗と一緒に体力まで流れ出ていく気がする。
「……なして俺が行かんといけんね……」
性格はわりかし穏やかな方だと自認している千歳ではあったが、愚痴も思わず零れるというものだ。それは、何も熱さのせいだけではない。今日これから行なわれる試合が、恐らくいつものそれとは全く違うものになるという確信があるからだ。余計なことに気を取られている場合ではない。集中せねばならない。
「……何ヶ月ぶりっちゃろうかね、桔平との試合」
千歳の元を去って以来すっかり聞くことの無かった親友・橘桔平の名を、全国大会に向けての地区予選が始まったその頃から再び耳にするようになった。彼の名が冠するのは、東京は不動峰中学テニス部部長。
不動峰中と言えば関東地区ではノーマークだった筈だが、今大会では立ち塞がる強豪の山吹や氷帝を退けて第3位という成績で、初の全国出場を果たした学校だ。その不動峰中学が、本日あと数時間もすれば千歳が所属する四天宝寺中学男子テニス部の、対戦相手である。
千歳は、この日がいつか訪れるだろうと予感していた。
橘が転校してから、とんと彼の名を聞かなくなった時でさえ、いつかふたり、再び相見える時が来ると。いつかまた、橘と戦う日が来ると。予感というよりも、それは確信だった。あの男がテニスを辞める筈はない、自分がテニスを続ける限り、上を目指す限り、必ず彼も追いかけてくる(もしくは、待っている)。
「いつか」と思っていた日が、ようやく。
「……ようやく、やって来たばい」
待ち望んでいた日だからこそ、きちんと自分の気持ちと向き合いたかった。向き合わなければならなかった。そのために、苦手な朝も早くに起きた。無駄な体力なんて使いたくない、来るべき因縁の相手との戦いのため解き放つ「無我のその奥」に向け、深く集中したかった、というのに。
(部屋におるべきやった)
後悔してももう遅い。千歳は額に滲む汗を乱暴に手の甲で拭った。
「なして俺が行かんといけんね…」
先程と同じ台詞も、先より心なしか沈んでいる。声に比例して、足取りも重たくなった。
(謙也くんは、良か奴、たい)
第一印象こそ良いものではなかったものの、よくよく付き合っていけば忍足謙也は人好きのする少年だった。年相応に馬鹿騒ぎも悪ふざけもする彼は、とても明るい少年だ。単純な性格なのか、深く考えることが苦手なのか、恐らく両方だろうけれど、とにかく人を疑うとか、裏をかく、ということを知らない。騙されやすいし、それでよく白石やユウジあたりにからかわれているけれど、実際素直で、真っ直ぐな少年だった。千歳ほどではないにしても中学生の平均よりもずっと高い身長に、(黙っていれば)きりっとして大人び整った顔立ちは、校内どころか近隣の女子学生にだってファンも多い。気さくで気取らないその性格から男友達も多く、彼はいつでも人に囲まれていた。
(良か奴たい。……ばってん)
彼はいかんせん、「素直」で、「真っ直ぐ」な、分かりやすい少年だった。
いつからだろうか、彼の視線を強く感じるようになったのは。例えば部活での筋トレ時。例えば部室で着替えている時。例えば放課後レギュラー陣でたこ焼きを食べに行った時。ちくちくと肌を刺す視線を辿れば、必ず金の髪の下にある、やや目尻のつり上がったアーモンド型の目にぶつかった。ばち、と音がしそうな程にしっかり重なる視線に、毎回あからさまに彼の頬が朱に染まるものだから、思わずこちらまで顔が熱くなってしまうのだ。
自分に関心を持つ者の、熱を孕んだ視線には慣れている。慣れている、筈だったが。
(男からの、は、初めてだからかね…)
女の子がこちらに向ける、「そういう意味合い」を含んだそれは、千歳への、言わばただの憧れだ。羨望だ。妄想だ。かっこいいとか、可愛いだとか、見ているだけで満足だとか、こんなデートをしたいとか、こんなエスコートをされたいだとか、こんなシチュエーションでキスをしたいだとか。自分を王子様だかヒーローだかアイドルだかのように思っている女の子たちの、夢見がちなうっとりとした視線は、なんだかムズムズとこそばゆくもある。反面、可愛らしくて、決して悪い気はしない。
しかし謙也が向けるものは、彼女たちとは違う。自分も男だ、よく分かる。少年の恋愛観は、少女のそれよりも、もっと即物的で生々しい。
「謙也くんの目は、やらしか……」
ぽつりと言葉にしてしまってから、これまでの、自分を見つめる謙也の眼差しを思い出してしまった千歳の頬に、自然と血が昇る。
熱の籠った視線。千歳の全体像を捉えてから、最初は顔や表情を映す。時が経つにつれ、あまり整えることをしない癖毛に、唇に(何か食べている時は、特に)、首筋や、腕(衣替えをしてから、更に酷くなった)、腰や脚、時には臀部や、下駄を履いているために剥き出しの、踝や爪先にまで感じる、欲情を孕んだ、物欲しそうな、それ。
「……っ」
あの視線が、身体中を這う感覚が蘇る。こんなにも気温は高いのに、肌がぞくりと粟立った。
(あの目が、あの目がいかん。いつもいつも明るい時間から、場所も考えんで、あんな目ぇして人ンこと見やるとか、こっちもおかしくなりそうばい。大体俺はホモじゃなかし、あんな風に見られたって、何も出来んし。そもそもあんなに分かりやすいのがいかん。もっとこう、財前ごたポーカーフェイス?っちいうんでうまく隠すとか、耐え忍ぶとか、とにかく男が簡単に顔に出すモンやなかよ。全部全部、謙也くんが、あの目がいかん……!)
誰かへの、何かへの言い訳が洪水のようにどうどうと脳内に溢れかえって止まらない。終いには思考の収集が着かなくなって、氾濫する謙也への思いを堰き止めるかのように、千歳はぎゅっと強く目を瞑った。
(こんなんで集中ば、出来ん…!)
作品名:あの夏、あの日、僕たちは 2 作家名:のん