あの夏、あの日、僕たちは 3
あの夏、あの日、ぼくたちは、格好悪いぐらいに悩んで、がむしゃらに苦しんで、必死な程に、誰かを、君を、想っていました。
千歳千里は、午後の試合を待たず、誰にも告げずに四天宝寺中テニス部を去った。
己が無意識に求めていた親友との邂逅を果たした今、テニスを続ける理由が最早どこにも無かったからだ。
渡邉から千歳の退部を聞かされた謙也は、千歳を呼び戻すと言い出す金太郎や、どこか納得している風な白石、驚いたり呆れたりしている仲間たちを、遠い世界の出来事を見るかのようにぼんやりと眺めていた。不動峰戦で初めて目の当たりにした、千歳の生き生きとしたプレイを、楽しげな表情を思い返していた。
いつも柔らかな笑みを浮かべて、飄々として、熱くなることはない千歳。サボってばかりの勉強だって、運動だって、試合だって部活だって女の子の扱いだって、彼は謙也以上にそつ無くこなす。ぼんやりとしていてながら、本気など出さなくとも必死になんてならずとも、「何となく」で万事上手くこなしていっているような、器用な少年。そんな彼の「全力」を、橘桔平が、その存在をもっていとも容易く引き出したのだ。
橘桔平、が。
その事実が、謙也にとっては酷く胸を苦しくさせるものだった。
(遣る瀬無い。敵わない。俺は、所詮は橘には、なれん。分かっとる、こんなん嫉妬や。しょーもない。せやけど、)
それでも謙也は、もう一度だけ千歳の、あの楽しそうな、幼い子供のような、頑是ない笑顔が見たかった。
(……もう一度だけ?いや、)
はたと思い直す。いいや、一度だけ、などではとても物足りない。
(千歳には、ずっとあんな風に笑っとってほしい)
許されるならば、これから先。出来れば、傍で。彼の様々な表情を、見ていきたい、と思う。
(めっちゃ可愛かったし)
自然と顔が綻んで、誰に向けるでもなく、うん、とひとつ頷くと謙也は、
「なあ、オサムちゃん」
オーダーを発表された四天宝寺メンバーが続々と準決勝のアリーナコートに入っていく背中を見送って、渡邉に声をかけた。
(俺は、橘にはなれん。千歳を変えてしまえる程の力なんて、俺は持ってへん。そんなら俺は、俺が出来るのは、千歳が変われるのを待つことだけや)
そうして準決勝は、早くもシングルス3、ダブルス2、シングルス2と激戦を繰り広げていった。現在2ー1で青学がリードしている。次はいよいよ四天宝寺の勝敗を左右する、ダブルス1の試合である。この組み合わせは、謙也と、四天宝寺が誇る天才・財前光のダブルスだ。関西強豪を背負う若き監督・渡邉オサムは、この四天宝寺の命運を賭けた試合に、どんな相手がぶつかってもしっかり対処ができるであろう、スピードとテクニックを兼ね備えたふたりを采配していた。
電光掲示板に、選手名が表示される。
青学側は、データマン乾貞治と、渡邉すらも予想だにしていなかった最大の強敵、手塚国光。
コートに広がるざわめき。
(手塚か…。おあつらえ向きやな)
この試合に向けて、コートに入っていなければならない筈の謙也は、観客席を彷徨っていた。この会場の何処かに、絶対にいる筈の長身を探していた。
続いてこちら側の選手も発表される。と、四天宝寺席に動揺が走った。
そこに表示された選手名は、財前光、そして、千歳千里。
(──見つけた。)
謙也の数メートル先、レギュラージャージを脱ぎ捨て掲示板を呆然と見つめる千歳が居た。
「掲示板の、ミス……」
「千歳ぇ!早よ来い!」
出番だと渡邉が急かすのを、信じられない、というような表情をして見遣る千歳。
「強い奴がコートに立つのが当たり前っちゅーもんや」
「謙っ……」
そんな彼を、謙也は、そう諭した。
「やりたいんやろ?手塚国光と!」
千歳が息を呑んだのが分かった。
彼の心の奥底を代弁出来るのは、謙也がいつも千歳を見ていたからだ。千歳が見ているものを、千歳が感じているものを、千歳の想いを、千歳以上に分かっている。謙也には、そんな自負があった。
(お前が「力」を欲していたのは、橘とのテニスのためやったんやろ。それが叶った今、今度は純粋に、テニス、やればええんや。橘に固執せんでも、テニスは出来るんやから)
青学戦の直前、謙也は渡邉に、自分のオーダーを千歳に変えて欲しいと頼み込んでいた。元々千歳から託された退部届は捨てる気でいた渡邉すらも、流石に大切な夏の一試合、本当に良いのかと念を押したのだが、謙也は一向に構わないと、頷いたのである。
「お膳立て、しておいたで」
なあ、と千歳に語りかける。
「橘が、離れてても九州二翼や言うてたやん。それなのに自分がテニス辞めたら、ほんまに橘片っぽだけの翼んなってまう」
謙也の言葉に、こく、と、千歳の喉が小さく鳴った。直後、背後でふわりと空気が流れる。千歳が、動く気配だ。
「……謙也くん」
小さな震えが混じった声で、千歳が呼ぶ。今朝と同じような響きを含んだその声音には、しかし今度は何処か柔らかな色が混じっている、と感じるのは、謙也の気のせいだろうか。
「何や」
「謙也くんは、お星様んごたるね」
「え?」
思わず千歳を振り返ると、彼もまた振り向いて、謙也を見つめていた。
「……いってきます」
はにかむように、ふにゃりと笑った千歳は、
(かっ……わええ……)
遊び場を見つけたような、宝物を見つけたような、それは年相応の、幼い顔だった。いつも見せる、妙に達観している大人びたそれではなかったことが、謙也は無性に、嬉しかった。
自然と高まる鼓動と、比例して熱を持つ頬のせいで、何か伝えようにも言葉が上手く出てこない。そうこうしている内に踵を返した千歳の背中は遠のいて、謙也はそれを多少名残惜しく思いながら見送った。
「兄ちゃん、」
周囲のざわめきとは明らかに違う、子供特有の高く甘い声が誰かを呼んでいる。
「兄ちゃん、」
その「誰か」が自分のことだと気付いたのは、その呼び掛けと同時に、くい、と何者かがユニフォームの袖を引っ張ったからだ。
「ありがとお」
視線を降ろすせば、愛らしくはにかむ、全く馴染みのない少女。年の頃は、謙也よりもずっと幼い。
「うち、お兄ちゃんのテニスば好きやけん、テニス部辞めたって聞いて悲しかったと」
こんな小さな知り合いはおらん、と、常ならば困惑するところだが、強い訛りに健康的なその肌色と、はっきりとした目鼻立ちと大きな目には、心当たりがあった。
「ばってん、お兄ちゃんきっとまたテニスやってくれるち思う!……ありがとお、兄ちゃん」
彼女は、謙也が強く想うあの少年と、とてもよく似ていた。自然、謙也の口許が綻ぶ。
「俺もな、あいつのテニスも、あいつの事も、むっちゃ好きやねん」
「ほなごつ?」
「ん」
「ふふ、嬉しかあ」
「せやからな、あいつにはまだまだうちで、俺と、俺らと一緒に、テニスしとってもらいたいねん」
「うちも!うちもお兄ちゃんに、お兄ちゃんを好いちょる人たちのいる所で、お兄ちゃんが好いちょるテニスばしてほしか!」
「そっか」
「うん!」
彼とは正反対であろう、指通りの良いさらさらとした髪をくしゃくしゃに撫ぜて、謙也は少女に笑いかけた。
作品名:あの夏、あの日、僕たちは 3 作家名:のん