LOST ④
平古場が屋上にいてほしいと思う。けれど、同じだけの感情でいなければいいとも思った。
心臓の鼓動が少し早くなり、鳩尾の辺りが圧迫されたように苦しい。一歩、また一歩と扉へと近づくたびにその苦しさが増す。ドアノブに手をかけた時、その手が小さく震えているような気がした。
久しぶりに、『緊張している』のかと思った。ただ、平古場に会うだけだというのに、何故こんなにも心が揺れるのだろうか。この扉の先に、平古場がいない可能性だってあるというのに。
揺れ惑う心を振り切るように、木手はドアノブを握る手に力を込めて、勢いよく扉を開け放った。
一番初めに木手の視界に入ったのは、青い空だった。そして、ガランとした誰もいない、柵に囲まれた空間が広がっている。木手は無意識に、胸に溜まっていた空気の塊を吐き出すように呼吸をした。
屋上へと足を踏み入れて、ぐるりと一周辺りを眺め回してみたが、平古場の姿はどこにもなかった。やはり、ここにもいないのかと少しだけ落胆した。
「仕方ありません。帰りますか……」
そう気持ちを切り替えて、扉へと足を向けた時、背中に強い潮風が吹いた。あまりの強風に振り返れば、先ほどは気にならなかった蒼い海が木手の目に飛び込んできた。
その蒼に、目を奪われる。
何処までも広がる水平線と、太陽の光を反射させてキラキラと輝く水面、そして寄せては返す穏やかな波の流れ、そのどれもが美しかった。
いつも見ているはずなのに、視点を変えればこんなにも、胸に迫るほどの美しさを秘めているのかと、思わず感嘆の声が漏れた。
「最高の眺めだろ?」
そう言って、隣に並ぶ姿があった。
横目でその姿を捉えれば、金色の髪をなびかせながら、同じ様に海を眺める平古場の横顔が見えた。その顔がとても嬉しそうだったので、木手は「そうですね」とだけ返して、また海を見つめた。
きらり、きらりと太陽の光を反射しながら白波の立つ水面は、まるで今の木手の心を映しているかのようだった。
「まさか、あの時の約束が、今果たせるとは思わなかったさぁ」
そう言って笑う横顔に、その意味を問いただそうとしたが、ふっと木手はその意味を思い出した。先ほどまで思い出そうとして思い出せずにいた記憶、平古場と一緒に歩いて帰った道で、平古場が木手へと言った言葉だった。そんな約束をしていたこと自体、木手は忘れていたのに、平古場は覚えていたという事実に少し胸がむず痒くなる。
先ほどまで木手の中で感じていた寂しさや、苦しさが今は嘘の様に収まっていた。それは、目の前の美しく綺麗な風景に心を癒されたからだろうと、そう木手の中で結論付けていたけれど、それだけなのかと心のどこかで引っ掛かる部分があった。
何故ならば、隣に平古場がいるからだ。
あの日から、木手の胸に巣食うさざなみの様な感情は、大抵の場合は平古場に会えば静まることが多かった。苦しみや悲しみが心に残ることはあっても、その焦りの様な、苛立ちの様な、どこか置いていかれた子供の様な寂しさは胸から消えている。
平古場の瞳に、木手が映っていると思うと何故か安堵した。
この感情の移り変わりを、平古場に聞けば答えが返ってくるような気がしていた。けれど、それをすることは木手にとって酷く嫌だった。答えを聞くことで、ずっと木手の中で守ってきた何かが崩れそうだったからだ。だからだろうか、反発する感情が強く木手の中にあり続けたのは。
そんな幾つもの感情を振り払うように、木手は小さく吐息を吐き出して、平古場へと向き直った。変わらず柵越しに海を眺めるその姿を見つめ、ゆっくりと口を開いた。
「今まで、どこにいたんですか」
木手へと顔を向けた平古場は、穏やかな笑顔を浮かべていた。その笑顔が、太陽に照らされて木手はあまりの眩しさに目を細めた。
「あそこの上」
平古場が視線を向けた先を見れば、木手が入ってきた入り口の上、屋根のようになっている部分だった。わざわざどうして、あんな所に登っていたのかと呆れた顔をしていれば、その思考が分かったのか、平古場は小さく笑って答えを教えてくれた。
「女子がうるせーから。あそこには流石に登ってこねぇばぁ? やくとぅ、丁度いい隠れ場所やたんどー」
「君、また何したの」
「な、ぬーもしてねーらん! プレゼントやっさーのなんだの、一日中まとわりついてくるから、ちょっと一人になりたかったんだしよ! またとか、あびらんけ!」
――プレゼント……。
その一言で、木手は手に持つ紙袋を握り直した。屋上に来る途中で出会った女子生徒から受け取ったものだった。平古場に渡して欲しいと頼まれ、断りきれずに此処まで持って来てしまった。
落ち着いていた心が、またざわりと波を立てる。それに気がつかない振りをして、木手は平古場に紙袋を渡した。不思議そうに見つめる漆黒の瞳に、紙袋が映っているのが見えた。その瞳をどうしてだか見ていたくなくて、視線を少し逸らしてから、木手は平古場に女子生徒からのプレゼントだと告げる。
次の瞬間、平古場の顔から笑みが消えた。視線を逸らしていた木手は、平古場の雰囲気が変わったことを肌で感じとり、視線を元に戻せば、強い感情の篭った瞳とかち合った。
ただじっと、無言で平古場は木手を見つめてくる。その視線の意味が分からなくて、木手は見つめ返すことしか出来なかった。もしかすると、プレゼントを受け取らないつもりだろうかと内心焦りながら思っていると、ゆっくりとした動作で平古場は木手の手から紙袋を受け取った。
木手は、ほっと胸を撫で下ろすと同時に、焦りにも似た感情が胸を締め付けた。
「やーは、じゅんに……」
ぽつり、と平古場から零れた言葉があった。けれど、次の瞬間にはもう平古場は木手を見てはおらず、先ほどと同様にフェンス越しに見える海を見つめていた。言葉は中途半端に途切れたまま続くことはなく、木手は二人の間に漂う奇妙な沈黙が気まずくて、何か喋るべき話題はないかと必死で探したけれど、気の利いた話題が何一つ思いつかなかった。そんな木手に気づくことなく、平古場は先ほどの言葉など無かったかのように、別の話題を口にした。
「なぁ、永四郎。わん、もうすぐ誕生日ぬーが」
「……」
突然の言葉に、木手はどう返していいのか分からず沈黙を守っていたが、平古場は気分を害することなく一人淡々と喋っていく。
「えーしろぉーに質問です。わんぬしちゅんなものは何でしょうか!」
「……」
「わんが今、一番欲しいもの何か知ってる?」
「……」
そこまで言い終わり、木手が何も言ってこないことを察したのか、平古場は口元に少しだけ寂しそうな笑みを浮かべた。目の前のフェンスに、手をかけてぐっと握りこむ。視線は相変わらず、海を見つめていた。
その姿はまるで、何かを必死に耐えているかのようだった。
「知らなくて当然やんやー。わん、永四郎に言った覚えねーし」
平古場は、そっとフェンスに額をつけて目を閉じた。そうすると、隣にいる木手の存在だけを強く感じることが出来る。
「でも、わんは永四郎のしちゅんなもの知ってる。一番欲しいものも……」
「……」