ブラック・ウルフ
「おやっさん、どこだー?」
薄暗い船倉は湿ったかびの匂いがする。が、ブラックはこの匂いに包まれていると心が落ち着くのだった。食料や武器を積んでいる手下たちに声をかけながら奥へと進むと、低い船蔵の隅にしかめっ面の小男がいた。ぶつぶつとつぶやきながら手には船の見取り図と定規を持ち、ブラックが目の前に立ったことにも気づかない。
「おやっさん、今度は何だ?」
うんざりしながら声をかけると、ようやく気づいたように船大工は顔を上げた。
「だめだ。船荷の場所が大きすぎて、船体が重くなっとる。これじゃ帆を張り替えた意味がないぞ。もう一度上陸して、間の仕切りを取るとしよう」
「おやっさん、いい加減にしてくれよ」
ブラックはうめき声を上げて、船大工の肩を抱いた。
「船体はそれほど沈んじゃいない。それにもう、船架もばらしちまった後だ。今度の修理の時でいいじゃねえか」
「いいや、だめだ。わしの名にかけて、こんな船を走らせるわけにはいかねえ」
頑として言い放つ船大工の口調に、ブラックは天井の握り棒を掴んで息を吐いた。この船の乗組員で一番年かさのこの大工は、元はピドナの国営造船場で働いていたそうだが、何か事件を引き起こして、辞めざるを得なくなったらしい。その理由が何かはブラックも知らない。
ブラックはなだめるように大工の顔を覗き込み、言った。
「おやっさんの腕は、大都市ピドナ一……いや、世界一だ。おやっさんが来てからこのシーウルフ号の船足は他を寄せつけない、圧倒的な速さを誇っている。これ以上、速力を望むっていうのはそりゃ、贅沢ってもんだぜ」
「そうか? いや、しかし、ここをもう少し軽く出来ればいいだけなんだが……」
自尊心をくすぐられ、まんざらでもない表情に変わったのを見て、ブラックは後一息だと知り、塩辛声を船倉内に響かせた。
「なあ、みんなもそう思うだろう?」
二人のやり取りを聞いていた乗組員たちは笑いをこらえながら一斉に答えた。
「ああ、おやっさん、これで十分だぜ」
「これ以上速くなれば、舵取りの腕がついていかねえ」
「そうか? まあ、おまえたちがそう言うのなら、今度の陸揚げまで待つとするか」
機嫌を直した船大工を後に残して、ブラックは再び甲板に上がった。
「おやっさんの機嫌、直りましたか?」
帳面に何か書き込みながら先ほどのロッシが尋ねた。ブラックはむすっとしながら彼の薄い胸を拳で叩く。
「なんでもかんでもおれに押し付けやがって。船長が船大工の守をするなんて、聞いたことがねえ」
痛そうに胸をさすりながらもロッシは笑った。
「頑固者には頑固者じゃないと」
「なんだと?」
その時、一陣の風が二人の間を吹き抜けた。
ブラックは目を閉じ、風の囁きを知る。
「北西風か。いい風だ」
満足そうに言ったブラックは、この船の守り神である、帆柱に彫り付けた女神像に一礼した。
一概に、船乗りというのは信心深く、ブラックもその例外ではなかった。広大な海は、人知では計り知れない未知の世界であり、荒れ狂う嵐や死のような凪の前に人間は、実にちっぽけな存在に過ぎないということを知っているのだ。風を操ると恐れられる彼といえど、自然が本気を出して襲いかかってくれば一たまりもないだろう。
その時、艀が全速力で櫂を漕いで戻ってくるのが目に入った。艀とは、遠浅の港などで沖に止まった本船との運搬等に用いられる小舟のことである。島陰に船体を隠しているために外洋の様子が分からず、ブラックは漁師に変装させた手下を小さな艀に乗せて、辺りを見張らせていたのだった。
「商船です。旗印は、燕が葉っぱのようなものをくわえてます」
ブラックの配下であるたくましい若者が艀から声を張り上げた。
「白地に赤の燕なら、ヤーマスの豪商、ドフォーレ商会ですね」
ロッシの言葉を聞いてブラックはけげんそうな顔をした。
「おれの記憶が正しければ、ヤーマスは内海に面した北の町だろう? なんでこんな所をうろうろしてるんだ?」
「陸路や港の関門を通れない、物騒な物でも積んでいるのでしょうか?」
声を聞き付けたクーバが舳先から索具を潜り抜けながら駆けて来た。
「何でもいいじゃないですか。ドフォーレなら世界屈指の豪商なんだから、あふれんばかりの船荷を積んでいるに決まっている。こいつは幸先いいや」
「しかしドフォーレなら、警備船もかなりのものでしょう」
ロッシの問いに艀の若者は首を振った。
「いや、一艘だけです」
クーバは顔を輝かせる。
「なら、何のちゅうちょもいらないですよ。気づいて逃げられる前に襲いましょう」
ブラックは用心深く考えていたが、やがて船中に響き渡る大声で言った。
「よし、戦闘準備だ。目標は南航しているドフォーレの船だ」