ブラック・ウルフ
たちまち船上は慌しくなった。
「錨を上げろ。漕ぎ手、檣楼員は位置につけ。島陰に船体を隠したまま平行し、奴らの船が通り過ぎたら湾を出て早足に変える。それまでは決して気づかれないようにしろ」
艀の男たちも縄梯子を伝って船に乗り込んだ。乗り手を失った艀は素早く船尾に吊り下げられる。
「いくぞ、櫂を漕げ」
ブラックの声にシーウルフ号は目を覚まし、ゆっくりと動き出す。
「取り舵いっぱい」
若い漕ぎ手たちに追いやられたのか、おやっさんが船倉から上がってきた。ちょうどその時、商船が入り江の前を過ぎるのが見えた。世界中の船に通じている船大工は低くつぶやく。
「ほう、相手はドフォーレか。あの程度の船なら十二分に追いつけられる」
「当たり前だ」
ブラックはにやりと笑うと、懐から遠眼鏡を取り出した。船は入り江を出ようとしている。
「ドフォーレの商船にしちゃ意外に小型だが、いい船だ。乗っ取ってやるか」
作戦のため、中央甲板に下りてきたトィワホがうなずく。
「なら、投石は最低限に押さえよう」
「それで勝てるか?」
「勝てるだろ?」
互いに胸を叩き合い、ブラックは大声で言った。
「櫂を引いて帆を張れ」
そう言うなりその場にどっかりと座り込んだブラックは、一心に神経を集中させた。彼が何をしようとしているのか知っているまわりの者は、何も言わずにじっと見守る。風に吹かれる黒い狼が刷り込まれている帆が揚がると、甲板にさっと影が落ちた。
(風よ……耳をすませておれの声を聞け……)
船がぐらり、と大きく傾ぎ、次の瞬間、帆はたちまちぐんぐんと風を孕んだ。風の向きが変わったのだ。今や風は南西に強く吹きつけている。
「これでずいぶん楽になるだろう」
顔を上げたブラックに船大工は感心したように言った。
「あいかわらず不思議な力だ。実際、おまえさんがいれば櫂漕ぎなんて必要ないかも知れんな。なんで風がおまえさんの言うことを聞くのか?」
「おれに惚れてるんだろうよ」
舵座に向かう得意そうなブラックの言葉にトィワホの声が重なった。
「おい、気づいたらしいぞ」
前を走る船は今になってようやくシーウルフ号に気づいたらしく、船足を上げている。だが、
「もう遅い」
ブラックは不敵に笑みを浮かべながら今まで舵を取っていた者と代わり、刻々と相手の船との間合いが詰まってくるのを見つめた。相手船の乗組員が船縁の隙間に見え隠れする姿が肉眼でも確認できる距離に縮まる。
船首に戻り手下たちを指揮するトィワホの姿が見える。
「帆を下ろせ。櫂を早漕ぎに変えろ」
火矢などを射掛けられたり、破られたりしてはたまらない。それに帆走では微調整が難しいこともあって、ブラックは後ろの横帆と早漕ぎで相手船を追うように命じた。が、それでも船足は各段にこちらが上だ。波飛沫を蹴散らすようにブラックたちの船は獲物目掛けて突っ込んでいった。
ドフォーレの船から、何かが放物線を描きながら飛んでくる。
「投石だ。避けろ」
ブラックの鋭い声が聞こえたのか、投石器を構えていた者は慌ててその場から飛び退いた。強い衝撃と共に、甲板に巨大な石がめり込む。ブラックは大きく舌打ちした。
「船尾からも投石が出来るのか……」
誰かの叫び声が響く。
「また来るぞ」
二つ目の石はシーウルフ号の鼻先すれすれに、派手な水飛沫をたてて落ちた。
「よし、放てえっ」
トィワホの力強い声が響き渡り、シーウルフ号からも巨石が宙を飛んだ。敵船の楯代わりの船縁を打ち壊す。続けざまに射手たちが次々と矢を放った。相手の船からも矢が射掛けられたが、商船の護衛兵士と幾度も戦いを経験してきた海賊とでは、その強さは歴然としている。相手の兵士がばたばたと倒れるのを見て、ブラックは舵柄を左に動かしながら叫んだ。
「鉤を引っ掛けろ。乗り込むぞ」
激しい振動が両船を襲った。速度を落とさぬまま接舷したために、互いに弾き返したのだ。が、ブラックはなおも舵を切り返してふたたび勢いよく相手船にぶつかっていった。
「こらーっ、わしの娘を乱暴に扱うな」
船縁が砕ける音や罵声や叫喚に混じって、ひっくり返ったおやっさんの怒声が聞こえる。何本も投げられた鉤付きの縄と索具とが絡まりあい、相手船に引きずられるように速度を落としたシーウルフ号はきしりながら寄り添った。
「悪いな、愛してるぜ、シーウルフ号」
腰に吊るしたバイキングアクスを手に取ったブラックは駆け走りながら肩をすくめた。相手船の舷墻の方が高いが登れないことはない。櫂を漕いでいた者たちも次々と武器を手に、甲板に上がってきた。
「トィワホ、援護頼んだぜ」
鉤付きのの綱を手繰りながら舷墻をよじ登るブラックや、索具にぶら下がって相手船に飛び移るシーウルフ号の乗組員を索具の中から狙う敵の射手たちを、トィワホたち射手が次々と射倒す。
「おらぁあっっ」
アクスを頭上に掲げながら相手の船縁から甲板に飛び降りると同時に、落下重量任せに真下にいた男の頭を叩き割ったブラックは、彼の死角である左手から飛び掛かってきた兵士の剣をとっさに逃れた。素早く体制を整えながら左足で踏み込み、いったんアクスを右脇に引き寄せて水平に凪ぎ払う。男はブラックの斧に弾き飛ばされて、船縁に転がった。
「一人も生かすな。殺して海に放り捨てろ」
回転するようにアクスを振り回し、敵を叩き潰しながらブラックは怒鳴った。
「あの片目の男が船長だ。奴を殺せ」
ブラックに狙いを定めた男たちが剣の切っ先を向けて突進してくる。が、
「なめるなよ、きさまら」
目にも止まらぬ速さで敵の懐に飛び込んだブラックは剣を叩き落とし、返す刃で男の顎を跳ね上げた。男の真っ赤な鮮血が飛び散るのを避けるために胸板を蹴り付け、床に膝を付いて後ろから振り被ってきた剣先を頭上で交わし、避けられて体制を崩した男の脛をなぎ払う。手馴れたともいえる一連の動作であった。
矢倉に飛び乗り素早く状況を見渡すと、敵の数は残り少なくなっており、ブラックの手下たちは二、三人が束になって彼らに切り付け、血まみれになったところを海へ投げ捨てている。
「あっけない勝利だな」