ブラック・ウルフ
息をついたブラックは、舷墻と渡り板にまたがるようにして指揮を取っているトィワホに大声で言った。
「船倉に下りて船荷を調べろ。まだ他にも敵が隠れてるだろうから、気をつけてな」
トィワホが数人を引き連れて甲板の中央に口を開いた階段を下りていくのを見届けたブラックは、シーウルフ号に残っているおやっさんとロッシに合図を送った。船を前進させて曳き綱をつけるのだ。矢倉から下りると、二の腕を真っ赤に染めたクーバが敵を海に投げ捨てているのを見つけた。
「けがをしたのか?」
尋ねられて初めて気づいたようにクーバは腕を見下ろした。
「本当だ。やけに熱いな、と思ってたんだけど」
ブラックは首巻を外し、強くクーバの腕を縛った。
「化膿すると面倒だから、後でロッシに薬をもらえ」
辺りの海は血で真っ赤に染まっている。黙り込んだクーバにブラックは尋ねた。
「怖いか?」
クーバは少し考えて言った。
「……切り掛かる時は怖さを忘れているけど、こうやって、終わった後にいつも怖さがよみがえってくる」
そう言うと自嘲気味に笑った。
「戦う前は威勢のいいことを言ってたくせに、いつまでたっても慣れずにびびってるおれは、海賊失格ですかね?」
「こんなことに慣れなくてもいいんだ、本当は」
静かにブラックは言った。
「だが、生き残るためには戦わなくてはならない。おれたちは狼と一緒だ。あいつらは道徳心など考えずに、生きるために戦い続ける。狼がいると知りながら、こんな所にのこのこ現れた奴らが悪いんだ」
「……そんな言い方はずるいです。おれたちは狼じゃない。人間なんですから」
「おれはずるい男だよ」
あっさりとブラックは言い、苦々しい笑みを浮かべる。
「でも、なんだか悔しくねえか? 結局、この世の中、金のある奴や、高い地位にいる奴がいい思いをして、貧しい奴や弱い奴がばかをみる。おれのしていることが正しくないことは百も承知だが、それでもやらずにいられないってこともあるんだ」
「…………」
黙り込んだクーバにブラックは背中を向け、甲板から倉口に向かって怒鳴った。
「トィワホ、大丈夫かー?」
しばらくしてトィワホが薄暗い船倉から体を見せた。その顔にはうんざりした色が浮かんでいる。口を開きかけたブラックは下で甲高い声が響くのを聞いた。
「暴れてどうしようもねえ」
「女がいたのか」
けっ、と舌打ちしたブラックは、上をトィワホに任せて船室へ下りていった。
「近寄らないでっ」
甲高い声が響き渡り、薄ら笑いを浮かべながら遠巻きに見つめている手下の肩を押しながらブラックは女の前に立った。
年は二十代後半だろう。美しく着飾り、なかなかに整った顔立ちをしているが、荒くれた男たちに囲まれて険のある目つきをしている。豪奢な身なりから察するに、ドフォーレの愛人か何かだろうか。
手には蝋燭台を持ち、部屋中に物が散乱していることから、そばに寄ろうとする者たちに物を投げつけていたことがうかがえる。トィワホが邪魔くさがったのも無理はないだろう。ブラックは弱ったように頭をかき、手下たちを振り返った。
「この女を艀に乗せて流せ」
彼らの船には、女と酒は乗せないという掟がある。その言葉を聞いても女は目をそらすことなく、切れ長の瞳でブラックを睨みつける。気の強い女だ。
「普段は女にやさしい男なんだが、おれが決めた規則をおれが破るわけにはいかないんだ。悪いな」
足を踏み出したブラックは飛んできた蝋燭台を腕で払いのけた。そのままうむを言わさず女の腕を掴む。
「陸からそう離れていない。その細腕でも櫂くらい漕げるだろう? さぁ、立て」
引きずるように無理やり女を立たせたブラックは、女の後ろに小さな戸棚があるのを見つけた。女はそれを守っていたらしい。
「なんだ?」
女を押しのけてそれを見ようとしたブラックの肩を、女は押さえた。
「触らないで」
ブラックはうるさそうに女の手を払いのけた。
「おれに指図するな。さっさと上に行け」
なおも騒ごうと口を開きかけた女の頬をブラックは平手で打った。
「おれはお願いしてるんじゃない。命令してるんだ」
女を甲板に上げさせたブラックは、戸棚の中に、両手に乗るほどの大きさの木箱を見つけた。開いてみると、イルカの形をした像が入っている。
「なんだ、これは……?」
ブラックは手に乗せてまじまじとそれを見つめた。まわりの手下も覗き込んで首を傾げる。
「何の変哲もない像のようですが」
「だよな?」
手下たちに引き続き、船倉を調べるように言い残した後、分からないままにそれを甲板にもって上がるとロッシがこっちの船に乗り移っていた。
「ちょうどよかった、これを見てくれ」
ロッシにイルカ像を手渡した途端、女が悲鳴を上げた。
「それを出してはだめえっ」
「うるせえ、黙ってろ」
一喝したブラックはロッシの手元を覗き込んだ。
「やけに大事そうに守っていたんだ。価値のあるものなのか?」
ロッシはそれを調べて首を傾げる。
「装飾品の一種のようですね。材質はオルハリコーンのようですが」
次の瞬間、ブラックは息を止めた。
風が――風が止まった。
そればかりではない、波の音も聞こえなくなり、船の揺れも止まった。反射的に船縁まで走り寄って大海原を見渡すが、うねりさえなくなっている。
「どうしたってんだ、一体……?」
心の中で風に呼びかけても返事は来ない。
「船長?」
後ろに近寄ったクーバが声をかけたがブラックは鋭く言った。
「静かにしろ」
全身の悪寒とともに、嫌な感覚が胸に広がっていく。何かがこちらに向かってくるような……。
「絶対にそれを海の上で出すなって、言われていたのに……」
すすり泣く女の言葉にブラックは振り返った。
「海の上で……?」