ブラック・ウルフ
その時、船が激しく揺れ、ブラックたちは船縁に叩きつけられた。索具から投げ出された手下が甲板に落ちるのが目に入る。
「な、なんだあ?」
すぐさま起き上がったブラックは、口をつぐんだ。
船尾側の海面から姿を現せたのは途方もなく巨大な化け物だった。巨大な口の中にびっしりと並んだ鋭利な刃を持つ化け物は、ばりばりと船尾を噛み砕き、一番近くにいた者を飲み込んだ。
「な、何だ、あれは」
「船長、早く向こうの船へ」
船が傾き、手下たちが次々と甲板を滑るのを横目で見ながらクーバが叫んだ。化け物に手を掛けられているこの船はじきに沈む。縁を伝いながら船首へ向かったブラックは振り返って叫んだ。
「ロッシ、早く来い」
だが、斜めになった矢倉にしがみ付いているロッシはブラックを振り返ると弱々しく微笑み、首を振った。
「私は残ります。船長は早くシーウルフ号に戻ってください」
「なんだと?」
先に手下たちに船板を渡らせながらブラックは怒鳴った。
「どういうつもりだ。勝手な真似は許さん。早く来いっ」
ロッシは腕を伸ばして甲板に突き刺さっている剣を引き抜いた。
「私は、あの時船長に『おれでもそうしただろう。おまえは悪くない』と言ってもらえたことに感謝しています。その言葉があの時の私にどれほどの救いになったか。……どうぞ、ご無事で」
矢倉から手を離し、胸元に剣を構えてまっしぐらに滑り落ちていくロッシを、信じられない思いでブラックは見た。
「行くなロッシ、行かないでくれーっっ」
船尾に向かおうとしたブラックをものすごい力で引き戻した者がいる。トィワホだ。
「奴はおれたちを逃がすために行ったんだ。その思いを無駄にする気か」
「ばかやろう、離せ」
だがトィワホはブラックをシーウルフ号の甲板に投げ飛ばした。素早く自分も飛び移り、両船をつないでいる綱を断ち切る。綱を外された掌捕船は、無気味な音を立てながらゆっくり沈んでいく。それに追い討ちを掛けるように化け物が上に乗りあげて、一気に船もろとも海面下に沈んだ。
跳ね起きたブラックはトィワホの胸倉を掴んだ。
「てめえ、どういうつもりだ。仲間を見殺しにしやがって」
「だからってあんたが死んだら、おれたちが困るん……」
言葉は続かなかった。
下から突き上げるような衝撃が全員を襲う。
「真下にいます」
縁から下を覗き込んだクーバが叫んだ。その声に振り返ったブラックは心臓が凍りついた。
「クーバ、下がれ」
「え?」
ブラックを見つめたクーバは悲鳴を上げた。化け物の手が伸びて、彼の体を捕らえたのだ。
「クーバ」
ブラックはとっさに、手に持っていたアクスを投げつける。が、大きな揺れがきたために手元が狂い、それは化け物の腕をそれて船縁の向こうに消えた。
「船長、おれ、怖いよ。死にたくな……」
だが、その言葉は途中で途切れ、化け物の握力で圧死したクーバは鼻と口から血を吐いてがくりと首を落とした。
「ちきしょう」
次々と仲間を殺され、怒りに燃えたブラックだったが、これ以上ぐずぐずしている暇はなかった。死んだロッシとクーバの仇を取りたい。しかしそれ以上に、今残っている手下たちの命を守る方が大事だった。身を引き裂かれる思いで冷厳な命令を下す。
「櫂を漕げ」
が、船はがくん、と一度揺れただけで止まってしまった。舵座にしがみ付いているおやっさんが泣き声を上げる。
「奴が船を止めてるんだ。さっきの衝撃ですでに舵軸も折れちまってるだろう」
ブラックは唇を噛んだが、すぐに船首に向かって怒鳴った。
「投石の準備をしろ」
矢は通用しないであろう事を察した手下たちがすでに構えて、ブラックの命令を待っていた。しかし、おやっさんは再び首を振った。
「無理だ。近すぎる」
「じゃあ、どうすればいいって言うんだ」
ブラックは喉の奥から絞り出すような声を上げた。この化け物の前では無力な存在でしかないのか。
「ブラック、艀に乗って逃げろ」
反対舷から駆けて来たトィワホがブラックの肩を掴んだ。
「ここはおれたちが食い止めるから、おまえはあれに乗って逃げろ」
「ばかか、おまえは。おれが死んだら困るって言ってたおまえたちが死んでどうする」
「いいから、早く行け」
「何だと、おまえ、おれに命令する気か?」
「おれの最初で最後の命令だ」
強い殺気がうねりながら二人を襲い、トィワホに突き飛ばされたブラックは目を見開いた。
トィワホの、首が吹っ飛んでいた。
ごぼごぼと血をあふれさせながらゆっくりと倒れるトィワホの体の向こうに、化け物の邪悪な顔が見える。面白がっているような、どこか人間くさい表情であった。
「なんて、なんて事を……」
体が震えるほどの怒りを覚えたブラックは、我を忘れてそばに転がっていた銛を拾い上げ、化け物に飛び掛かった。
「ちくしょう、ちくしょう、おれの仲間たちを」
だが、渦のような不思議な力に捕らわれて銛は手から滑り落ち、ブラックは化け物の腕に捕らえられた。
浅瀬のような翠色の瞳が何かを探すように、彼の体に視線を這わす。
鉄のような意志で硬直を振りほどき、化け物の上唇に手を掛けて体をひねらせたブラックの足に、引きちぎられるような激痛が走った。
無我夢中でブラックは身をよじりながら残りの力を振り絞り、化け物の目に拳を叩き込む。
咆哮を上げながら化け物はブラックを離した。
まっしぐらに海に落ちたブラックは、水面に浮かび上がろうと必死に泳いだ。
が、足が思うように動かない。
水中に激しい揺れがきて、ほんろうされるようにブラックの体は勢いよく流された。おそらくシーウルフ号が沈められたのだろう。
(おれの仲間を、おれの大事な仲間を殺すな)
震えるような怒りと生への執念が腕を動かすが、急激に体の力が抜けていき、ブラックの意識は遠のいていった。