真白物語
最も、それは私以上に彼の隣の席に腰かけているヒカリが感じているらしく、サトシが彼女に何か語りかけるたびに彼女の頬が恥じらいを帯びて上気する様子が大変可愛らしかったが、サトシが彼女のそんな様子に気がつかないのは大変滑稽でもあった。そう言った、女ごころというものに気がつかないのは、少年の時から変わっていないらしい。
ここは、ポケモンセンターから徒歩で五分ぐらいのところにあるカフェ―なのである。ポケモンセンターに近くにあるのと、足場が良いのと、それともう一つ、もっと大きな理由として、この店のコーヒーや食べ物が美味しい上に安いことから、あらかたの椅子は客でふさがっていた。サトシもよくこのカフェ―には立ち寄るらしく、女給さんとも親しい様子であった。
「二人の活躍は、雑誌でよく見ていたよ」
それが、サトシが最初にいった言葉であった。その言葉を吐き出すとき、彼の凛々しい顔が以前のように柔らかく笑ったのが見えた。
「だったら、どうして帰ってきたときに連絡してくれなかったの?」
そう言ったヒカリの唇はかすかに震えていた。
「ああ、いろいろと忙しくなってきてね、気になってはいたんだけど……でも、ヒカリたちも忙しそうだったから、何となく連絡するのもはばかられてしまってね」
「あら、あんなことを。――」
ヒカリは信じないという眼をして、
「電話で呼びたてたりして、迷惑じゃなかった?」
「実は昨日もタケシに叱られたんだ」
「あら!」
と、ヒカリは瞠目した。タケシというのは、彼らがシンオウ地方を巡っていたときの仲間の一人で、今は故郷であるニビシティのポケモンセンターに携帯獣医として勤めているということを私はヒカリから聞いて知っていた。黒い肌をして背の高く、眼が針のように細い。ニビシティ界隈では(ごぼうの先生)などと呼ばれているようである。
「サトシ、タケシと会ったの?」
「うん、月に二、三回ポケモンたちの様子を見てもらっているから。そのときに一緒に行かないかと誘ったんだけど、コンテスト当日は忙しいらしくて……ヒカリにすまないって言いていたよ」
「そう……」
と、ヒカリは言い淀みながら、
「あこがれのポケモンドクターになったんだから、仕方がないわ」
ここで、私はハッとして懐から封筒を取り出すと、
「忘れるところだったけど、これミクリカップ当日のチケット。二日分入っているからね、無くしたら会場に入れなくなるから、気をつけて……」
「ありがとう、じゃあ、ちゃんとしまっておかないと……」
サトシは私から封筒を受け取ると鞄の中に入れた。私は懐からもう一枚の封筒を取り出すと、
「それじゃあ、もう一人の分はどうしようか、ヒカリ……」
念のためを思って、私たちはもう一人分のチケットを持ってきていたのだった。
「それじゃあ、それも貰っていいかな?」
と、唐突にサトシが言ったものだから、私はヒカリと顔を見合せた。
「いいけど……誰にあげるんだい?」
「とてもお世話になった人が、今家に来ていてね。その人に二人のことを話したらとても興味を持ってくれてね。二人に会ったときにその人の分も頼むつもりだったんだけど……だめかな?」
その人が大岡先生のことだったわけだけど、私たちはまだそのことは知らなかった。彼がサトシのポケモンバトルの師であると知ったのはずいぶん後になってからだ。
「そんなことないよ。サトシがお世話になった人なら私たちも大歓迎だわ。ねえ、ノゾミ……」
「うん、私も別にかまわないよ」
と、言って私はサトシに封筒を渡した。
「ありがとう。当日は二人のこと全力で応援するから、頑張ってくれよ」
「勿論よ。きっと最優秀賞をとるから、大丈夫!」
「そう、その事だけど、ヒカリ……」
ここに至って私は、先刻ポケモンセンターで星野紗江子一行と知り合ったことを二人に話した。
「ふうん、あの星野さんが出場するの……強敵ね」
「クレセリアを使うコーディネーターか。話には聞いていたけど、ヒカリは会ったことがあるのかい?」
すると、ヒカリはかぶりを振って、
「あの人はこのカントーで売り出していたから直接の面識はないんだけど……あそこまで有名になるといやでも耳に入るのよ。でも、そんなこと、どっちだっていいわ。それよりも、彼女が出ることがハッキリとしたのだから、もっと演技を磨かないと。それであたし、サトシにお願いがあるの」
「お願い? なんだい」
ヒカリは急に思い出したように、少しためらいの表情を見せると、少し声を落として、
「ここに居る間の宿のことなの。サトシの家に泊めてもらえないかなって……そうしたら、サトシにあたしの演技を見てもらえるし、あたし一度はマサラタウンに行ってみたいと思っていたから。ね、いいでしょ」
私は、そう言ったヒカリが、いままでのヒカリとは別人のように感じた。そもそも、声がちがう。その声はあまやかに響きわたる。何やら、サトシに甘えてものを言っているような気がするのだ。そんな彼女をずいぶんと甘えん坊になったものだと私は苦笑を洩らしたものだった。
サトシも気の利かないなりに、ヒカリの変わりようを感じ取ったらしい。頬を掻きながら、哀願するような彼女の眼から顔を逸らして、
「いや、それは……ヒカリがそうしたいって言うなら、俺は歓迎するけど」
と、言った。
すると、ヒカリは嬉しげに微笑んで、
「じゃあ、決まり!! あたし、――とっても嬉しいわ。ノゾミは、ノゾミも一緒に行く?」
「私? いや、私はよしておくよ。こっちに用もあるし、それに……」
二人の邪魔をするのは忍びないよ。――と、言いかけて私はその言葉を続けなかった。
「いま、ちょうど四時だね。向こうに着くのが遅くなるから、そろそろ出かけるとしようかな。ああ、出かける前に家に連絡を入れないと――なあに、すぐに戻ってくるから、ヒカリはここで待っててくれ。それじゃあ、ノゾミ、また……」
「うん、またね」
暫くして店に戻ってきた彼と、ヒカリは手早く勘定をすますと二人連れ添って店を出て行ったのである。
そんな二人の姿を、私はコーヒーを飲みながら見送った。私自身異性との恋愛を経験したことがないのだから、こんなことを言う資格はなかったのかもしれないけれど、とにかくそのときは、愛する友人である彼女の、いきいきとした様子を見たことが私にとって大変うれしいことであったのである。ヒカリがあんなにも嬉しげな笑みを浮かべたのはいつ以来であったろうか。彼女がコーディネーターとして売り出してから今まで、浮いた話の一つも聞いたことがなかったこともすべて今日という、彼と、サトシと再会するという出来事のためではなかったかとすら私には思えたのだ。
ただ、――それにもかかわらず、かすかな不安が私の中にあったのも事実である。この恋が、彼女の想いが不幸な終末を迎えなければ良いが、――と。――
四.
コンテストマスター・ミクリ様主催のミクリカップは、いつも街のコンテスト会場を借りて行われる。