銀魂log...Vol.1
「ぎんとき」 男の、良く出来た声が、彼の人を呼びます。 静寂に満ちた部屋でなく、喧騒の街中であろうと、その声は彼の人に届き、彼の人を傷つける。 そんな妄想が忽ち私の中に湧き出てくるのを感じました。 なぜなら、今まで、一本の棒の如く、揺るぎもしなかった彼の人がくるりと男の方へと向き、その身体に抱きついたからです。 彼の人の体躯は、男よりも大きく、立派でした。 が、その彼の人よりも男は、随分、頑丈そうに見えます。 彼の人が、小刻みに揺れるのを、空いた左手で撫でてやる男は、この様子に慣れているのでしょう。 微動だにしない。 「た、かすぎ」 彼の人の声を聞いた私は、もう溜まりません。 すうと左足を後ろに引いて、身体を反転させると、なるたけ音が出ないよう、その場を立ち去ることしかできなかったのです。 ですから、その後のことは知りません。 ただ、男の唯一自由になる目が此方を、一度も見なかったことだけが、私の幸福であることは承知しています。
夜の道は、凍えるようだった。 けれども私の両足は、地面を蹴ることを辞めません。 やめてしまえば、それきり、どこからも動けぬような心地がしたのです。 我が家に帰ると、乱暴に草履を脱ぎすて、自室へと駆けます。 どたどたとうるさかったのでしょう、姉が寝ぼけ眼で、尋ねてくるので、私は今まで抑えていた、感嘆やら溜息やら涙を一気にこぼしてしまったのでした。 あの時、零れていた桃色の液体もこのような調子で、土石流のように崩れ、その後、落ち着いても尚、堪え切れぬ感情があったのやもしれぬ。 ただ、私は姉の、小さな肩に顔をうずめ、うわんうわんと泣きました。 己の流す涙は、彼の人のように決して美しくなかったに違いありません。 しかし、姉は、あの時男が彼の人に振る舞っていたように、私を撫でてくれました。
あの日のことは、一度も口にしていません。 言葉にしたところで、誰も信じてくれないでしょう。 私は、それで構わないと思っています。
こういうわけで、一等美しかった彼の人を、私は知りません。 それでも十分に、私は彼の人を愛していましたし、彼の人も私を大切に扱いました。 情欲のような憐憫が含まれぬ隣人愛です。 それを私は、一人育てることを任されたのです。
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2010/10/18
作品名:銀魂log...Vol.1 作家名:べそ